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冷たい桜 第4話【創作大賞2024 ミステリー小説部門応募作】

 誰かが叫んでいる。金切り声、桜、死体、嵐。めまぐるしく変わる景色の中で、上島だけがその場所に居た。自分はその場所に立っているだけなのに、辺りは上島にお構いなしにその色を変え、形を変え、上島に迫ってくる。その映像は伸び、縮み、何の脈絡もなく移り変わっていく。まるでテレビの映像が、大画面で周りを取り巻いているような、妙な、それでいて気味の悪い夢だ。
そして唐突に静かになった。轟音の後の静寂。水滴を一つ落としても、その音が聞こえそうな沈黙に変わる。
上島がゆっくりと視線を上げると、いっそ寒々しいほどの青い空が広がっていた。雲は殆どなく、何の建物も見えない。

「サボりですか? 上島勇朔くん」

 唐突に声が掛けられた。慌てて振り向くと、学生服―学ランを着た、神楽が居た。そこで、ああ、これは夢なのだな、と上島は思う。神楽の視線の先には、同じく学ランを着た上島が居た。途端に辺りの景色は写真のようにしっかりと色づき始める。灰鼠色のそっけないコンクリートの床と壁、年代ものの球形の給水タンク。ここは屋上だ。緑色のフェンスに囲まれたそこは、高校時代の上島の指定席だった。
「委員長こそ、何してんだよ」
 ぶっきらぼうな声で、今より数段幼い上島が煙を吐いた。――煙草を吸っているのだ。それを特に咎める様子もなく、神楽は微笑んで、上島に近付いた。
「いや、僕もサボりですが?」
 今でこそ、神楽と一緒にいることも多いが、高校入学当初は、上島は神楽のことが苦手だった。いつも何があってもニコニコしていて気味が悪かったのだ。神楽は頭はすこぶる良かったし、性格も良く、スポーツも出来た。何しろ顔も良かったので、クラスメイト、教師共に慕われているようだった。私立の名門と名高い蓮南付属に相応しい逸材であることは、本人も周りも承知していただろう。だが、当の神楽自身は、自分の価値など気に留めてもいないようだった。皆の憧れの人となりながら、誰とも距離をおいて付き合っていたようだ。上島は、いつも皆の中心にいる神楽をそう分析していた。柔和な表情だが、誰に対しても敬語を使う。そのことが、神楽の周囲へのバリアーの証だと思った、

「委員長がサボりか。――よく言うぜ」
 高校時代の上島は、幾分荒んだ気分でフェンスの外を眺めた。おそらく、単なるサボりではないと上島は直感していた。この男は、そういう人間ではない。こいつには、空白の時間など存在しない。自分の利にならないことはしないタイプの男だ。上島はそう踏んでいた。ここに来たのも、何か用事があるのだろう。
「今のうちのクラスの授業は何だ」
「二限目ですから……国語ですね」
 神楽は地味だが高価そうな腕時計を見ながら、上島に告げる。
「あ、そ。で、何の用だ?」
 国語という科目名を聞いて、上島は自分の考えが間違っていなかったことを証明したように思った。ごく一般的な考え方ではあるが――何か用事があるとき、数学、国語、物理、日本史、体育などの科目からフケるものを選ぶなら、国語だろう。体育など出なくても一向に構わないが、あれは出席を重視する科目だ。音楽などもそうだから、五教科七科目のうち、一番抜けても影響のないものがあるとすれば、それは残念ながら国語だった。
「俺に何か用なんだろ? そうじゃなければ、わざわざ委員長様が授業をフケてくるはずがないもんな」
 上島は、皮肉っぽく言い、紫煙を風に飛ばせた。高校時代の上島は、世の中を斜めから見ていた。斜めどころではなかったかもしれない。見るもの全てを拒み、批判し、この世はどうせろくでもないのだと、一人荒んでいた。高校生ならよくあることかもしれなかったが、上島のそれは、普通とは少し違っていた。小学校以前の記憶と、家族の記憶がない。それなのに、普通に暮らせということは、到底不可能だったのだ。家は使用人がいるほどの金持ちで、学校は私立の蓮南付属と聞けば、裕福で何一つ不自由のないお坊ちゃまだと言われる。しかし蓋を開けてみれば、そこは家族という繋がりのない「出資者」と、記憶のない少年が一人居るに過ぎなかった。本当はそうではなかったかもしれないが、上島にはそう見えていたのだ。けれど今から思えば、よくそれぐらいのことで済んだと思う。学校には休みがちだが行っていたし、大学も受けた。犯罪も起こさなかった。――――自分を褒めてやりたいぐらいだ。
「ひどいなぁ。僕が、用がなければ、君に話しかけないみたいじゃないか」
 神楽は皮肉られていることに気付いていながら、それでも顔色一つ変えなかった。
「事実だろ」
 今まで神楽に話しかけられたことはない。高校に入学してから一ヶ月。神楽の名前と人となりを承知していたのは、一重に彼が有名人だからに他ならない。
「特に用があって来たわけではありません。たまにはサボりたくなるときだってある。……上島くんだって、そうじゃありませんか?」
 上島は、疑わしそうな目で神楽を見た。
「それより、その敬語を止めろ。背中がむずむずする」
 それに、神楽ほどの人物に、畏まって「上島くん」などと呼ばれるのは何だか嫌だった。神楽はくすくすと笑う。上島はその様子を見て、顔を顰めた。
「お前、本当は性格悪いだろ」
 上島自身も、口からつるりと出てしまった言葉だった。別段、他意があって言ったわけではない。紛れもない本心には違いなかったが、初対面同然の相手に向ける言葉ではなかったことに、後から気付いた。クラスの「委員長」で、生徒からの「人気者」で、「次期生徒会長」と言われている者に、悪口を言う奴などいないのだ。神楽は目を丸くしている。さあ、怒るか、馬鹿にするか―と苦く思った時、隣で爆笑が聞こえた。今度は上島が目を丸くする番だった。
「上島くんって……正直、なんで、すね……っ」
 発声が途切れ途切れなのは、神楽が身をくの字に曲げるほど爆笑しているからだ。ひとしきり笑うと、神楽は至極愉快そうに、その身を起こした。息を整えるように、深く深呼吸をする。
「久しぶりにこんなに笑いました」
 目尻の涙を拭うと、神楽はにっこりと笑った。
「敬語がそんなに嫌ですか?」
 上島はその視線から目を逸らすように横を向く。
「ああ、嫌だね。特に同年代から、しかも委員長様から敬語を使われたんじゃ、寝覚めが悪い」
「そうですか、じゃあ上島くんも、僕を委員長様というのを止めて戴かなくてはいけませんね。僕の名前は委員長ではありませんから」
 怒っているのではなく、あくまで口の端を上げながら言われて、上島は返事に窮した。
「僕は、神楽千静といいます」
「知ってる」
 上島が言った途端、運動場で遠く歓声が聞こえた。どこかのクラスでは野球をやっていたらしい。バットを投げ捨てて走る打者に一瞬目を転じてから、上島は言った。
「敬語。直ってない」
 はたと神楽は気付いて、照れたように笑う。
「――ごめん。癖なんだ」
 神楽がそう言ったとき、上島は初めて素の神楽を見たような気がしていた。
「僕は、君のことを何と呼んだらいい?」
「好きなように呼べばいい。上島でも、何でも」
 くん付けされなければ何でも良かった。
「じゃあ、勇朔ってよんでもいいかな」
「――お好きに」
 もう一度、運動場で大きく歓声が上がった。形勢逆転したのか、生徒たちが手を叩いて喜んでいる。それを遠目に見ながら、上島は神楽のことを考えていた。変わった奴だ、と思った。あれ以来、長い付き合いになるが、何故あのとき神楽が授業をサボっていたのか、いまだに分からない。あのときのことがなければ、高校時代仲良くなることすらなかっただろう。

「―――さん、上島さん。起きて下さい。朝ですよ」
 上島は瞼を震わせた。カーテンを開ける小気味好い音がして、白い光が病室になだれ込む。上島はその光に応えるように、目を開いた。映ったのはまだ若い看護婦だ。まどろみながら僅かに身を起こして、台の上の腕時計を見ようとする。それを察して、看護婦が教えてくれた。
「八時ですよ。診察はまだなんですけど、お客様がいらっしゃったので、案内がてら」
 言うと、まだ頬の線が子どもらしい看護婦は笑う。
「お客?」
 上島は一瞬誰が来たのかと思ったが、昨日神楽が着替えなどを家に寄って持ってきてくれると言ったので、それだと察した。仕事に行く前に寄ってくれたのだろう、悪いことをしたと上島は思う。
「どうぞ。上島さん起こしましたから」
 会釈をして、看護婦は去っていく。しかし病室に入ってきたのは、神楽ではなかった。思わずぽかんと口を開ける。まだ上島は髪も寝起きのままで、およそ知らない人に会えるような恰好ではなかった。神楽ならいいかと思っただけだ。
辺りを不安そうに見回しながら入って来たのは、三十代も前半かというところの女性だった。思わず、部屋をお間違えでは、と喉まで出掛かる。
「あの……上島勇朔さん…でいらっしゃいますか?」
 名指しで訪ねて来ているのだから間違いはないのだろう。しかし、何故見も知らぬ人が、見舞いに来るのだろうか。上島は戸惑いながらも、はぁ、と頷いた。
「あの……私、上島さんが探偵だと、伺って……」
 蚊の鳴くような声で告げられて、上島は初めて合点がいった。仕事の依頼だと分かると、急に頭が冴え始める。
「どうぞ、そこにお座り下さい」
 ベッド脇の丸椅子を勧める。勧めたところで、病室のドアがノックされた。
 がらりと開けた戸から顔を覗かせたのは、神楽だった。
「あ、チセイ。今……」
 神楽に事情を説明しようとすると、神楽は承知している、というふうに頷いた。
「朝、勇朔の家に着替えを取りに行ったら、家の前で出会ったんだ。そうしたら勇朔を訪ねてきたというから、私がここだと教えたんだ」
 神楽が同意を求めるように女性を向くと、丸椅子に腰掛けた女性は神楽に見とれるように頷いた。
「じゃあ、勇朔。ここに着替えは置いておくよ。私はこれから仕事だから、お先に失礼します」
 神楽は荷物を置くと、女性に会釈してさっさと去って行った。上島には正直有り難かった。依頼主の用件を他者が聞いていては、依頼主に良い印象を与えない。きっと気を使ってくれたのだろう。
 改めて、依頼者だという女性に向き直る。
「すみません、起き抜けのだらしない恰好で非常に申し訳ないのですが。……着替えてきても?」
「いえ、そのままで結構です。それよりも、話を聞いて頂きたいのです」
 女性は、芯の弱そうな外見からは想像出来ないほどに、しっかりした意志を持っているようだった。上島はそれでは、お言葉に甘えて、とボサボサの髪型と、やたら病人くさく見えてしまう水色の患者服で、女性を見る。
「こんなに朝早くから押しかけてしまって本当にすみません、ただ一刻も早く解決して頂きたい問題だということをお分かり頂ければ幸いです。私、小笠原おがさわら香乃かのと申します」
 女性は深々と頭を下げた。同時に長く艶やかな髪が肩から垂れる。少しウェーブのかかった栗色の髪は、朝の爽やかな陽射しに柔らかく反射した。
「冬馬郁子……さんの紹介で?」
 上島が尋ねると、香乃はええ、と伏し目がちになる。そして、暫くの沈黙ののち、香乃は、上島の方を、充血した瞳で見据えた。瞳に涙が盛り上がっている。
「私の夫を、お墓から掘り起こした犯人を、捜して下さい」
朝の静かな病室に、声がこだました。
 
小笠原香乃の話はこうだった。今から五年前に小笠原昭雄と結婚し、何不自由ない裕福な生活を送っていた。子どもこそいないものの、夫は優しく、幸せを絵に描いたような暮らしをしていたという。しかし、その幸せに影が差すときがやってきた。夫が病気になったのだ。既に末期の癌だった。悲嘆にくれる暇もなく、短い闘病生活に呆気なく終止符は打たれ、夫は亡くなった。結婚して間もない夫の死。あまりにも突然で、放り出された香乃はあまりにもあどけなかった。最愛の夫を亡くしたことを受け入れられず、精神的に病む日々が続いた。夫はまだ生きているという幻想に取りつかれることもあったと言う。
 最近になって、ようやく、夫は亡くなったのだと受け入れることが出来るようになり、元気を取り戻し始めた。その矢先に、警察に呼び出されたのだった。
「貴方の夫の墓に掘り返された後がある。遺体が持ち出されたかもしれないから、確認に来てくれないか」と。
 まさかと思ったが、確認に行かないわけにも行かず、人違いであることを祈りながら、遺体の確認に小学校に向かった。桜の木の下にある、その遺体を目にしたときの光景は一生忘れないでしょうと香乃は言った。目に映るのは、変わり果てた夫の姿。既に正視に耐えない状態になった彼の体は、腐臭を放ち側近くへ寄ることも、ましてや触れることも出来なかったそうだ。顔も、体も、生前と何一つ同じだと思えるところはなかった。それで人違いと言えたなら、どんなに良かっただろう。しかし残酷なことに、遺体は、彼を知るほんの少しの人にしか分からぬように―まさに何かの呪いのように―生前の面影を、残していた。
「墓を掘り返され、最愛の夫を無残な形で見せ付けられたことに、深い悲哀と憤りを覚えています」
 香乃は泣きはらした目で、そう言った。本当なら、親しい人の死に顔を覚えていることはそんなにないだろう。記憶の中に残る表情は、生前のもののはずだ。けれど、香乃は、夫の死後何年か立った後の姿をも、忘れることはないだろう。深く愛した夫を、嘲笑うかのように桜の木に見世物にした犯人を、捕まえて欲しいのだという。
「警察の方に任せるべきことなのは分かっています。けれど、警察の方は私がどれだけ訴えても、真剣には犯人を捜して下さいませんでした。元から死んでいる死体なのだから、誰が掘り返そうが、同じだと……。そう仰います。元々死んでいたんだから、と口を揃えて言われるのです。私はそうは思いません。主人は、二度亡くなったのです。一度目は不幸にして病気で、二度目は何者かの手によって、屍を衆目に晒されました。主人が何をしたと言うのでしょう。優しかったあの人が、一体何を……っ」
 語尾は嗚咽になった。それでも懸命に言葉を紡ごうと、口を開く。
「私は、主人を安らかに眠れるようにしてあげたいのです。それが、生き残っている者の使命です。………どうか、主人を……お願いします……」
 依頼ではなく、懇願だった。
「――分かりました。お受けしましょう」
  小笠原香乃は、有難うございます、と頭を深く下げた。頭を起こした香乃の顔には、初めて見る笑顔が浮かんでいた。泣きはらした後の笑顔は、上島には雨上がりの景色のように清々しく見えたのだった。
「――で、引き受けることにしたって言うのかい?」
 その日のうちに退院することが出来た上島は、ようやく自宅に帰ることが出来た。少しの外出のはずが、やけに長くなってしまった。神楽にも、家に帰れたと連絡したので、今、神楽は上島の家にいる。
「ああ、郁子さんの紹介で来たってことは、霊絡みだ。ただの人間の仕業じゃないな」
 上島は紫煙をくゆらせる。病院では吸えなかったので、この一服がいやに美味しい。リラックスした上島とは逆に、神楽は、けど、とソファから身を乗り出すようにした。
「徐霊……するのかい」
おずおずと尋ねられて、上島は人差し指を左右に振った。
「『霊媒』だ」
 ソファの背もたれに体を預けて、上島は言った。
「いい機会だ。神楽にも、その辺のことを話しておいてもいいかもしれないな」
 上島は、神楽に霊媒師としての職業のことを何も話していなかった。探偵という肩書きだが、実は霊媒師なのだということぐらいしか、神楽は知らない。
「まず、徐霊だの霊媒だの何が違うかと言うところから説明するか。徐霊やゴーストバスターなんてものが世間でも持てはやされたりしてるが、そんなものは、今は綺麗さっぱり忘れて欲しい。俺は、『霊媒師』としてこの仕事をしている。徐霊と霊媒、どこか違うか。徐霊ってのは、霊を見つけて祓う、それだけだ。けど、霊媒師は、霊を自分に同化させて、浄化して祓う。祓うというと区別がつかねえかな。つまり、霊媒師は霊の考えや願いを聞ける立場にいるんだ。それで、霊がこの世に未練がないように願いを叶えて成仏させてやれる。でも、霊魂ってのは、大概の望みが「成仏したい」ということに集約される。生前にどんなに人を憎んでても、誰かを殺したいなんて願いはまずないな。霊魂は、限りなく純粋なものだ。生まれたばかりの人間のようにな。だからややこしい願いはない。霊媒師はその願いを聞き届けて、成仏させてやる。そこが徐霊師との違いだ」
 神楽は沈着冷静、理性を重んじる医者だ。そんな人間に霊だの成仏だの言っても駄目かもしれないという可能性を上島は考えていたが、神楽は真剣に話を聞いていた。
「霊と同化するということは……よく映画でシャーマンが呻いたり叫んだりしてるように、気がおかしくなったみたいになるの……かい?」
「いや、そんなことにはならない。同化だから、霊媒師にもきちんと意識はある。体が乗っ取られたようになることはない」
 近頃流行りのゴーストバスターとやらにも困ったものだ、と上島は思う。本当のものと、全く世界観が違うのだ。
「全然、違うんだ。実際の霊媒師と、メディアの世界に溢れている幽霊退治とは月とすっぽんくらい離れている」
「そうなのか……。そういえば、勇朔は霊媒師だけれど、病院で幽霊が視える、などということは一度も言ったことがなかったね。それとも、視えてるけども言わないだけなのかな?」
 上島はコーヒーを一口飲んだ。長い話になりそうだった。
「ややこしい話になるが――まずこれだけは理解して欲しい。霊魂―いや、幽霊か、例えそういうものが視える体質だったとしても、普通にしていれば、視えない」
「そうなのかい?」
「どう言えば分かりやすいだろうな……。言語みたいなものだと思った方がいいかもしれん。テレビを見るときなんか、二重に音声が聞けるとしたら、日本語か英語か、どちらかに統一しないか?」
「まあ……そうだね」
「日本語と英語が二重に聞こえりゃ聞きづらいからな。どちらの言語も話せれば尚更だ。霊媒師も、そういうふうに、普通の目と、霊媒の目を使い分けて、脳で切り替えをしてる。普段から霊魂が見えたら、日本中に霊が溢れてて、生活出来ないしな。ま、何かの拍子に見えてしまう、ということはあるだろうが。テレビのチャンネルみたいなもんだよ。切り替え可能なんだ。俺たちが言葉を話したり聞いたりするときに、日本語と英語で頭を切り替えてるようにな」
「いつも霊が視えてる人はいないということだね?」
「大抵の人間は、切り替えが出来る。けど、中には霊媒視と普通の目の切り替えが出来ない奴もいるという話を聞いたことがある。ずっと霊が視えている状態だ。そういう奴は総じて――――」
 上島は顔を暗くした。あまりいい話でもない。
「早死にだ。しかも、おそろしく若いうちに」
 上島は煙草の灰をを灰皿で落とした。再び口に持っていく。
「電灯のスイッチがずっと入ってるようなもんだろうな。ずっと点けたままなら、そりゃ切れるのも早いさ」
 神楽は無言で、組んだ手を見ていた。
「けれど、そんな奴はまあいない。俺も見たことがない」
言って天井を仰ぐ。
「霊が視えるということにも色々ある。第一段階の霊魂は俺も視えない。第三段階になって俺の目は初めて使えるようになる。まずそれを説明するか」
 上島は電話口から紙とボールペンを持ってきて、ピラミッドの形を描いた。
「霊魂ってやつは三種類に分けることが出来る」
三角形の底辺の辺りを指しながら言う。
「一つは、死んだばかりの、善も悪もない純粋な魂だ。大抵の人間はここで成仏するが、この段階で成仏出来ない魂は、第二段階に進んじまう。この辺になると、魂自体の善と悪が分かれる頃って言われてるな。しかし何らかの形を取りながらも、まだまだ一固体としての力は弱い。それで、第三段階まで成長してしまう霊がいる」
上島はピラミッドの頂点を指した。
「これが俺の見える霊ってやつだ。第三段階の霊は、非常に性質が悪い。何せ、今までは一つだったのが寄り集まってるからな。霊ってのは、一つだと小さすぎるからあんまり問題ねえんだが、三段階目では、何十、何百、何万って霊がたむろしてる。それだけ集まると、何かの形を作り出す。昔から悪鬼や色々な妖怪なんてものの図鑑が作られたりしているが、まあそんな感じのやつらだ。図鑑に載るなんてことはよっぽど有名なんだがな。――まあ、やつらにしちゃ、しめたもんだ」
「しめたもの、とはどういうことだい?」
「よく現れるようになると、名前がついちまうだろ? チセイ、お前にも、れっきとした『神楽千静』という名前があるだろう」
神楽は、不思議そうな顔をしながらも頷いた。
「お前は名前があるからこの世に存在してる、とも言えるんじゃないか?」
上島は続ける。
「名前があるということは、やつらにとっちゃ赤飯でも炊きたい気分だろうと思うぜ。名前なしの霊ってのは、ふらふらしてて、いつ消えてしまうか分からん根なし草みたいなもんだ。けど名前がつくとそれは百八十度変わる。人が呼んでくれるんだからな。奴らは名前を呼ばれれば呼ばれるほど、この世に定着出来る。昔、『あまり妖怪の名前を呼ぶな』と言われたことはなかったか?」
「いや、特にはないが――」
上島はため息をついた。手で頭をがしがしと掻いている。
「あるって相槌ぐらい打ってくれよ。――そうだな、昔学校の怪談がブームになった時があったろう。花子さん、とか口裂け女とかだ。チセイも知ってるな? 同時にコックリさんなんかも流行ったと思うんだが、その時、『コックリさん』と何回も言ってはいけないというまことしやかな噂が流れていなかったか。十回連呼したら不幸が起こるとか何とか」
「ああ――そういえば。クラスメイトが言っていたよ。私は興味がなかったけれど、何回言った、何て数えていたからね」
「そう、それだ。俺は中学のときにクラスの奴らがよくはしゃいでいたのを覚えてる――中学になってだぞ? 幼稚だろう。まあ、そういうわけで、名前を呼べば呼ぶほど、その土地に定着出来る、、、、、、、、、、。そういうことだ」
 神楽は、成る程と頷いて、顎に手を当てて考えていたが、不意に言った。
「じゃあ勇朔が見た蓮北の桜の木には、霊が憑いていたということなのかい?」
 上島は、机に広げていた紙をピシと弾いた。
「問題はそこだ。俺は何も視てないが、居る気配はした。詳しく調べる前にぶっ倒れてちまったから何とも言えんが……。もう一つの問題は、憑いてるのは、桜の木か死体か、それとも他のものか、ということだ。今の段階では何とも言えない。もし桜の木だと仮定すると、納得のいかない点が幾つかある。もし桜に憑いていた幽鬼なら、わざわざ墓から死体を掘り起こしてくる必要があるのか? そして、そんなことが出来るのかって点がな。しかし、何に憑いてたとしても、あの死体を桜の木の下に放置したのは何でだろうな。まあ、俺はサンユエ属性だからな……あの霊に対して不利な点がある。ユエに聞けば何か分かるかもしれん」
「サンユエ? ユエ? 中国語かい?」
「おっと、属性の説明もしなきゃならなかったか。霊媒師には属性が二通りある。太極図を思い浮かべて欲しい。陽と陰があるだろう? そのように、太陽サンユエユエの属性に分かれるんだ。これは幽鬼も同じことで、第三段階の幽鬼は属性を持っている。自分と同じ属性の幽鬼には強いが、自分と逆の属性の幽鬼には、同じレベルの幽鬼でも、こちらが倍以上の体力を使わされる。厄介な相手だ。そういう時に備えて――でもないか。霊媒師は皆、徒党を組んでる。現在、確認されてる霊媒師の数は、日本で十人弱だ」
 神楽は唖然とした。
「たった十人……?」
「そうだ。霊媒師の数は、世間が想像してるより遥かに少ない」
「じゃあ、メディアでよく見る徐霊師たちは?」
 上島は肩をすくめた。
「―『ヤラセ』だな」
 本当のことだ。確認されている霊媒師は非常に少ない。確認というと、他にもいるのではと思われるかもしれないが、霊媒が出来、霊魂を成仏させられる者というと、全国で十人もいない。確認されている者イコール日本の霊媒師の数と思っていいだろう。
「そして、俺の属性がサンユエだ。他の霊媒師は、本山かその近くに住んでいる。そういう場所があるんだ。代々続く、華山家総本山がある。今の当主は、二十八代目だそうだ。当主の名前は阿相あそう玄天げんてん。そして、その兄弟、阿相げんすいが副当主を務める」
「阿相玄天……」
 その物々しい名前を神楽は反芻する。
「どこかで聞いたことがあるような気がする……」
 記憶を手繰ろうとする神楽に、上島はあっさりと答えを突きつけた。
「そら、あるだろうさ。お前の弟の師匠だろ」
「え?」
 神楽は目をしばたいた。神楽には弟がいる。名は神楽かぐら千春ちはる。母親違いの義弟だった。千春が神楽家の家族になったのは、既に神楽がかなり成長してからだ。長い間、一人っ子だったのだ。千春の母親が亡くなったので、神楽家で引き取ることになったのだった。しかし祖父の指示で、千春は滅多に家には帰って来ない。修行をさせている、とのことだったが、祖父にあまり根掘り葉掘り聞くことは躊躇われて、たまに義弟が帰って来るのを楽しみにするしかなかった。どこに行って何をしているかは聞いていないが、高校はきちんと行っているようだし、神楽と会ってもくれる。だが、阿相玄天の弟子になっていたとは、と神楽は呆然と呟いた。
「そういえば、うちの家系は代々神子や霊感のある人間が何人か出ていた。そういう特性を持つ者は、神楽家を継がず、その特性を高めるような生活をすることになる。ということは、さっきか勇朔が言った、数少ない霊媒者の中に、神楽家の人間もいるということになるね」
「そうだな。おそらく居るだろう」
 千春の霊力は強い。それゆえに、玄天の弟子になることが出来たのだ。まだ高校生だが、将来は華山家当主の座に座れるかもしれない。
「で、チセイの弟、千春の属性は、ユエだ。だから今回のことで、何か手がかりをつかめるかもしれない……。ちなみに、阿相玄天の属性は俺と同じサンユエ。サンユエは今のところ俺と玄天の二人だけだな。ユエは神楽千春、副当主阿相玄水、そして最後に俺の師匠だ。――もう亡くなったけどな」
 上島は、師匠、と言うときに僅かに目を細めた。ゆっくりとたゆたう、煙草の煙を追いかけるように、空を見つめる。
「何だか……初めて聞くことばかりで、驚いたよ。うん、でも話してくれてありがとう。嬉しかった」
「いんや」
 いずれは話そうと思っていたことだ。
「一度、華山家総本山に行かなきゃならんかもしれん。チセイも行くか?」
 義弟が何をしているか知りたいだろう。神楽は千春のことを可愛がっているのだ。
「うん、是非。もし邪魔じゃなかったらだけどね」
「大丈夫だ。当主は優しい人だしな」
 千春の義兄だから、全くの他人を連れて行くことにはならない。
「それまでに、何の幽鬼が何に憑いているのか調べておくさ」
 上島は気楽にそう言った。しかし、事はそう簡単には運ばなかったのである。

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