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冷たい桜 第7話【創作大賞2024 ミステリー小説部門応募作】

 舞い散る桜の花びらの中に、上島は佇んでいた。酷く禍々しい巨大な桜。まるで桃源郷のように美しい花を咲かせるのに、何故こんなにも怖ろしく感じるのだろうか。
そこには、小さな子どもがいた。見事に咲き誇った桜の枝を手折ったのか、手に大事そうに抱えている。桜の木の近くに親しい人が居るようで、輝くような笑顔で、その人物に手を振っている。陽光眩しい、優しい季節だった。
 しかし、子どもの瞳は次の瞬間、絶望に見開かれた。青空が広がっていた、うららかな春の日は、一瞬にして様変わりする。空はこの世の終わりのような夕焼けに変わり、夜の気配が忍び込み始めた。燃えるような朱色の空に、暗雲が立ちこめる。けれど、子どもの瞳は、そんなものは見てはいなかった。手から、握り締めていた桜の枝がぽとりと落ちる。
 太い桜の木の枝に、女の人がぶら下がっていた。そこに居ることが当然のように、まるで桜が実をつけるとしたら、このようになるのだと言わんばかりに。だが実際は桜の実であるはずがなかった。枝にしっかりと括られた縄の輪で首を吊っているのだ。子どもはふらふらと立ち上がり、引き寄せられるように、木に近寄った。
 薄桃色の花びらのはずのものは、今や夕陽を浴びて、血の色のようになってしまっていた。子どもが見つめていた女性は、既にぴくりとも動かない。ただ時折吹く風に従って、右へ左へと揺れるのみだ。子どもは、女性が何をしてしまったか、彼女がどうなったのか知る術はなかったが、何かとんでもないことが起きているということは理解出来た。――――それも、途轍もなく悪いことが。
 ゴウ、と強く風が吹き、花びらが一斉に風に連れ去られていく。子どもは自らが風に飛ばされないようにすることも難しかった。風から己を守るために、腕で顔を覆いながらも、彼は必死で叫んでいた。風はまずます強くなり、花びらも、木も、周りのものも、全てのものを奪い去っていくようだ。首を吊った女性も、まるで紙細工のように、風に吹き上げられ、ただの物になってしまったかのように、はためいている。やがて、竜巻に似た風が起こり、木々も草木も、なにもかもを、この地からなくしていった。巨大な桜の木でさえも例外ではなかった。びしびしと枝が折れ、満開を迎えたその身を惜しげもなく風の前に差し出した。子どもは何か叫んでいる。必死の形相で何かを叫んでいた。
 そして、その暴風に女性が攫われるのを目にすると、子どもは叫んだ。

――おかあさん!

 上島はその桜の木の下に居た。異常に紅い桜だと思う。まるで血のようだ。木を見上げると、枝に何かが揺れている。――人だ。中年の男が、項垂れるようにして木で首を吊っていた。黒い死体。顔は見えない。死体全体が黒く、体型からしか年齢が判断出来なかった。上島は助けねば、と駆け寄ろうとするが、どうしても近くに行くことが出来ない。ただ少し遠くから、その木を傍観することしか出来なかった。影のような死体は、一つ、二つと桜の木に増えて行く。それは若い女性であったり、子どもであったり、また老人のようでもあった。やがて何十という死体が、木の方々の枝に揺れているのを見たとき、上島は絶叫した。
「止めてくれぇ――――――!!」
 途端、四肢を引き裂くような激痛が走った。四方八方に手足が激しく引っ張られるようだ。このままでは引きちぎられてしまう。みしりと骨が鳴る。上島は耐えられず悲鳴を上げた。
「ぐああああぁぁぁぁぁ!!」
 断末魔のようだ、と意識の端で思う。それでも痛みは治まらず、頭にも、脳味噌を無理矢理引きずり出されたかのような、割れるような痛みが走る。
「あああああぁぁ、ぐっ、ぐわぁぁぁぁあああああ!!!!」
 上島は両手で頭を押えて、激しく転がった。こんな痛みは体験したことがない。こんな地獄のような責めを受けるなら、いっそ死んでしまったほうが、遥かにマシだと思った。
 痛みが引いてくると、またあの幻覚を見る。女性が首を吊っている。子どもが叫ぶ。そして何十、何百の死体がぶら下がる桜の木。助けようとしても、どうしてもそこに行くことが出来ない。それが終わると、また激痛の繰り返しで、あたかも呪いのようだった。もう何度も何度も繰り返し、半ば死んだようになっていると、淡く光るものが見えた。
 その光は段々大きくなって来る。上島が億劫そうに目を細めると、ついに光は上島を飲み込んだ。
「……朔」
「勇朔……」
 聞き慣れた声だ……。けれど、これは、誰だ?
 面倒だったが、意思の力を総動員して、重い瞼を押し上げた。薄く開けたところから刺さる光。眩しい陽の光だ。
「勇朔!!」
 端整な顔立ちの男が見えた。細い銀縁の眼鏡をかけた、大層な美青年だ。
「誰だ……?」
 上島が思わずそう口にすると、男は鈍器で殴られたような表情に変わる。
「勇朔……?」
「神楽さん、安心して下さい。記憶が混乱しとるんですわ」
 木で出来た桶と、タオルを持って入ってきた青年が言う。こちらも眼鏡をかけてはいるが、異様な風体だった。長い金髪を後ろで一つに結い、服は着物だ。白い小袖に、濃紺の袴。巫女服の男版のようである。
「俺……」
「ええです。今は何も思い出さんでいい。もう一度寝てて下さい。暫くしたら思い出すでしょう。――――何もかもを……ね」
 上島はその声に応えるように、圧し掛かってきた瞼を再び下ろす。瞼が落ちきる直前、勇朔、と呼んだ、名残惜しそうにした青年が見えた。
 上島が寝付いたのを見届けて、神楽は表情を緊張させる。上島の前では、普通にしていたかった。しかし、尋常でないことが起こっているのは薄々感じている。それは華山家総本山全体の様子を見ているだけで感じ取れた。平生ひっそりとしている華山家ここですら、今は慌しく、人々の囁き声がそこここに聞こえてくるような、そんな雑然とした雰囲気だ。玄天の表情にも、以前とは違う色が混じっている。人々の顔は、どこか鬱々として、しかし起こった事柄に対して非常に衝撃を受けているように見えた。それに、この家ですれ違う使用人などが、阿相玄天の顔をちらちらと、妙に注視しているのも気にかかる。
 何故かは、まだ神楽にも判然としない。とにかく、霊媒をした後に急に激しく苦しみだした上島を、どうにかしてここまで運んだこと以外、神楽に分かることはなかった。運ぶ、と簡単に言ってはいるが、上島をここまで連れてくるのは、想像を絶する作業だった。断末魔のような悲鳴を上げ続け、神楽が羽交い絞めにでもしていないと、自分の喉を掻き切ろうとする上島の手足を縛り、首に手刀を落としてを意識を失わせた。縛る段階でも滅茶苦茶に暴れられ、神楽の腕や足は、上島が蹴ったり噛み付いたりした後が残っている。およそ正気とは思えない上島を後部座席に放り込み、まさに命からがら、華山家総本山まで連れてきたのだ。
「お師匠様」
 千春が薬湯を持って廟に入って来る。上島が今寝かされている場所は、座敷でも応接室でもない。華山家総本山の廟に居るのだった。――――それも、今まで使うことが禁忌とされていた、開かずの廟だ。
「神楽さん……ちょっといいですか」
 玄天はいつになく真剣な顔で神楽に問うた。玄天の後について、神楽は廟を出る。玄天は、裏山の方に向かって歩を進めていく。廟が小さく見えるようになったところで、玄天は足を止めてくるりと向き直った。
「神楽さん、貴方にだけはお話しておきます。今はまだうちの者に聞かれるわけには行きませんので、こんなところまで来て頂きました。出来るだけ、冷静に聞いて頂きたいと思ってます。――――上島さんのためにも…………」
 神楽は、見えない風に正面から押されたような気がした。足元が僅かにふらつく。何か良くないものの前触れのような気がした。強風が窓を揺らすときの、あの不吉。夕焼けが異様なほどにあかく、世界が終わるかのような、あの不吉。誰もいない校舎に独り佇むときの、あの不吉だ。神楽はその身に全ての不吉を、丸めて投げられたかのように感じた。――聞くのが、怖い。上島について、何を告げられるのか。予想だに出来なかった。しかし、聞かなくてはならない。他ならぬ上島のことなのだ。上島の支えになれるのは、自分だけだという自負があった。
「聞きます。どうぞお話ください」

 とろとろと夢を見ていた。まるでぬるま湯の中に浸かっているようだ。それは幸福な子ども時代というものかもしれなかった。世界の形はよく分からないけれど、見るものは美しく、謎に満ちていた。全てのものに金色の粉がかかっているようで、その光を、小さな瓶の中に閉じ込めたいと思った。けれど、彼らの美しいと思うものは、いつも瓶詰めには出来ないようなものばかりだった。例えば、草の上のまろい朝露だったり、プールの底にあたる陽の光の波紋だったり、ホースから出る水の中に見る虹だったりした。手に入らないものだからこそ、憧れ、手元に置きたいと思ったが、彼らは本能で知っていた。大人のように、何もかもを手中に収めてしまえば、その途端に、金色の粉は消えてなくなってしまうのだということ。自由に水田を飛びまわっていた蛍をとじこめた瞬間、その光が消えて死んでしまうように。手元に置いておくことが出来ないからこそ、人の中には幼年時代の記憶というものが、色濃く残っているのかもしれない。認識も出来ないほど、DNAの中に入り込んでいる。そして、それはときどき、ちらりと顔を覗かせるのだ。
 上島は意識の川を、ゆっくりとたゆたっていた。酷く気持ちが良い。この不思議な温度は、何だろう。ここはどこだろう。上島は小さく丸まっていた。こんな気持ちのいい場所からは、もう出たくない。世間の荒波に揉まれるのは、もうたくさんだ。上島はずっとここに居る気だった。外に出れば何か恐ろしいことが待ち受けているのが解る。だのに、上島がここにずっと居ると思った瞬間から、周りの川が静かに波打ち始めた。それは段々と大きな波になり、やがて上島をも飲み込む津波になる。
――――やめろ、やめてくれ!! 俺はずっとここに居たいんだ!!
 波は反対するように、ますます荒れ狂い始めた。最早上島はここに歓迎されるべきものではなくなった。上島はとうとう流された。このままどこに行くのか、一点に、波は迷わずに向かう。上島が目を凝らすと、トンネルの先は白かった。白い世界だと思った。何もないようで、全てを内包する世界。丸いものが見えた。丸くて白い。それは上島が見る最初のものだった。
――――朔。
 外の世界で聞いた初めての言葉。欠けることのないもの。満腹と飢餓を併せ持つような、まるで真逆の物体。それは表裏一体で、決して離れることはない。
――――朔だわ。この子は、勇朔にしましょう。
 天の恵みのような、満ち足りた声だった。女神のようなその手は、静かに上島を抱き上げた。白く柔らかな手が頬をくすぐり、淡く笑う。上島は外の世界を知った。受け入れようと、拒絶しようと、どちらにしても、この世界からは逃れられない。もう、あそこに帰ることは出来ないのだから。

「勇朔が、朔の霊媒師……?」
 神楽は呆然として、声を掠れさせた。
「まさか。何かの間違いでしょう。勇朔は、『太陽サンユエ』の霊媒師。それは本人も承知していることです」
 霊媒師にはそれぞれの属性がある。それは、三種類に分けられ、一つは『太陽サンユエ』、次に『ユエ』、そして『サク』から成る。しかし、殆どの、九十九・九%の霊媒師は、サンユエかユエの属性だ。太極図が陰と陽に分かれ、二つで一つであるように、サンユエとユエも、真逆の属性ではありながら表裏一体のものである。故に霊媒師は、属性の違う二人組で行うことが通常だ。しかし、それとは全くの別物の、朔は、属性というよりも、属性を持たないということに近い。サンユエでもユエでもない、完全に独立している霊媒師。百年か二百年に一人の確率で生まれるという、最強の霊媒師だ。
しかし。
『朔属性の霊媒師は、寿命が短い』
 確か玄天はそう言っていなかったか。神楽は血の気がすうっと引くのが分かった。まさか、上島が。信じたくない。
「――――神楽さん。上島さんが、あれだけの幽鬼に対峙して、霊媒を失敗しながらも、何で今無事か、分かりますか」
 神楽が黙っていると、玄天は続けた。
「幽鬼からかなり離れていた筈の貴方でさえ、爆風で飛ばされ、怪我をしている。けれど、その中心に居たはずの上島さんが、何故、軽度の火傷程度で済んだのか」
「何故……」
「上島さんが朔だからですよ。いや、朔に覚醒したから、と言うべきか」
 神楽は、何箇所か怪我をしていた。上島を華山家まで運ぶときに、上島に負わされた怪我もあったが、爆風で木に打ち付けられたときに、無数の打ち身も切り傷も出来ていた。足や腕は青あざになっているし、包帯で手当てしてあるものもある。傍目には結構な怪我だ。よくよく考えれば、遠くに居た神楽よりも、上島は何十倍もの怪我をしていてもおかしくはないのだ。
「上島さんは、本来朔だったはずなんです」
「まさか……。しかし、証拠は、あるんですか? 何故朔だと分かるんです?」
 神楽は玄天に詰め寄った。
「あれだけの幽鬼と戦いながらも、無事でいる点です。普通ならどうなるかご存知ですか? 四肢が引きちぎられるだけでは済みません」
 霊媒に失敗した霊媒師の末路は、語るも無惨だ。到底正視出来ない状態で死んでしまう上に、魂は成仏しない場合も多い。時空の狭間に投げ出され、永遠に彷徨い続けることもある。また、その魂が悪霊になることだってあるのだ。
「そして、今開帳している廟は、本来開かずの廟と呼ばれています。廟は、霊媒師が傷ついたときなどに、外界から護る役割を果たしています。それぞれの属性の廟がある。サンユエ、ユエ、そして今上島さんが居る廟は……朔です」
 神楽は、上島が華山家総本山に運ばれたときを思い出した。大慌てで廟に運ぶことになり、サンユエの廟に運んだのだが、酷く苦しみ、一向に良くならない。神楽から事情を聞いた玄天は、もしかすると、上島は朔なのではないかと鋭く推理したのだ。その後、朔の廟に運ぶと、上島は目に見えて落ち着いた。そのことで、華山家総本山の者たちはうろたえているに違いない。しかし、肝心の上島はどうなるのか。上島の寿命は。
「押し問答はこの辺でやめましょう。上島さんが目覚めたら、ちゃんと調べます。属性が分かる道具がありますから。けどその道具は、霊力を多少必要とするので、上島さんが衰弱している間は難しい」
「属性なんかどうでもいい!! 私が――私が知りたいのは、勇朔の寿命がどうなるか、それだけだっ……」
 神楽がこんなに大きな声を出すことなど、前代未聞だった。温和な神楽が、眉間に皺を寄せて怒っている。
「上島さんの寿命は――――」
 玄天の声音は、こんなことは言いたくなかったという思いに満ちていた。
「一年か二年か十年か……どれだけ保つかは分かりません。しかし、まず長生きは出来ないでしょう」
 玄天はそれだけ言うと、呆然としている神楽を置いて、家の方に戻って行った。
『朔属性の霊媒師が現れるのは、百年か二百年に一度』『パワーが強大過ぎて、人体が保たないんだろうな』
 上島が話した言葉が、神楽の頭の中に洪水のようにあふれ出す。
 ああ、勇朔。百年か二百年に一人しか現れない、最強の霊媒師。それが君だというのか。
 世界は何と皮肉なことだろう。一番、生きていて欲しいと思う人を――先にこの世から奪っていくのだから。

 次に上島が目を覚ますと、側には誰もいなかった。ただ黄昏の空が、部屋を淡く照らしているだけだ。上島は痛みを訴える身体の言うことを何とか無視して、上半身を起こした。ベッドにしては、やけに高い位置だ。そう思い、辺りを見回すと、どうやら廟だということが分かる。生贄を差し出すかのように作られた寝台は、高さ一メートルはあるかと思われた。周りには、そこここに赤い石楠花が生けられている。上島の寝ていた頭上には、神棚があった。金色で作られたそれは、長い年月を経て酸化していた。長い間誰も手入れをしなかったのだろうか。
 そう思い、ふと、それはおかしいと考え直す。サンユエとユエの廟は、いつも誰かが掃除しているはずだ。それに頻繁に使用されているので、手入れもされずに、派手に酸化することなどないはずなのだ。――ここはどこだ? こんな廟は見たことがない。上島は、サンユエとユエの廟には入ったことがある。サンユエの廟は優しい色合いの木で出来た、素朴な廟だ。明るい陽の日差しを思わせるようなつくりになっていて、居心地が良かった。それに対して、ユエの廟は、黒曜石がふんだんに使われた廟で、高価そうではあったが、冷たい感じがした。これは、上島がサンユエの属性だったからだろうか。しかし、本来ならサンユエの――いつもの廟に居るはずなのだが、何故。ここは何の廟だ?
 廟の扉が遠慮がちに開けられた。キィと油を差していない、高い金属の音がする。夕暮れの光に逆光になっていて、誰なのか、表情は見えない。けれど、上島はシルエットで気付くことが出来た。
「チセイ?」
 神楽は返事をしない。
「チセイだな? ここはどこだ? 何の廟なんだ?」
 神楽は小刻みに震えているように見えた。一体どうしたというのか。
「チセイ?」
 もう一度呼ぶ。すると、神楽は蚊の鳴くような声で、ぽつりと言った。
「『朔』の――廟だよ。勇朔」
 神楽は泣いているように見えた。

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