クロノスの末裔 #十三、終 耳に残るは君の歌声【創作大賞2024 ファンタジー小説部門応募作】[完結]
暫く開けることのなかった扉を開く。――クロノスが消えて二か月。クロウドはアジトで寝泊まりしていた。自宅に帰ろうと何度も思った。しかし、クロノスの痕跡がすべて消え失せている今、自宅の何もかもがなくなることに、耐え得る覚悟がなかったのだ。もう、クロノスの思い出が詰まった家に帰ることは出来ないかと思った。しかし、ロレンツォから確かにクロノスは存在したことを聞いて、不意に帰りたくて溜まらなくなった。
(――覚悟は出来ている)
家の中は、クロウドのものだけになり、クロノスと過ごした日々は、跡形もなくなっているのだろう。わかっている。王家からも、政府からも、クロノス一族の存在ごと抹消されているのだ。
久方ぶりに戻った自宅は、あまり変わっていないように見えた。キッチンに歩み寄り、クロウドは目を疑った。
クロウドの使っていた白のマグカップと、クロノスの使っていた青のマグカップが、残っていた。
「ある……!!」
慌てて、食器棚を確認する。二人分の皿やフォークとナイフ、スープ皿まで、すべて何の変りもない。クロウドは泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「クロノス……! こんなの、詰めが甘過ぎるよ……。君がいなかったことになんて、出来ないじゃないか……」
こうなれば、もう、クロウドの気が触れたという言い訳は通用しない。二人で暮らした日々の痕跡はすべて、あの日のままだ。
「そうだ、クロノスの、部屋……!」
食器は忘れただけかもしれない。クロウドは慌ただしく二階に駆け上がり、クロノスの部屋の扉を開けた。クロノスの気に入っていた、ふかふかの青い毛布、勉強机。その何もかも。クロウドの家だけが、まるで世界で唯一、タイムカプセルに埋まっていたかのように、以前のままだった。緊張が解け、クロウドは思わずその場所で頽れる。
「どうして――遺してくれたんだ。クロノス」
懐中時計を取り出し尋ねてみるが、陽の光を弾いて虹色に輝くばかりで、何の返答もない。
クロウドはハッとする。
「もしかして……。遺しておけって……いうこと、かい?」
消えていないのは、クロウドの家でクロノスが使用していたものすべてだ。クロノスの痕跡は消えてしまっていても仕方ないと思っていた。だが、クロウドに全て遺して消えたクロノスの意図を感じずにはいられない。
クロウドはロレンツォの言葉を思い出す。東洋の付喪神。もしクロノスがそれに相当するもので、今は消耗して人型を取れないだけならば。
「戻って――来てくれるの……か? クロノス……」
わからない。なにもわからない。クロノス一族がどうすると死ぬのか、どうすれば生き永らえるのか。クロウドは何も知らない。いつなら戻れるのか、何十年も掛かるのか。それとも、もう二度と戻れないのか。傍らの懐中時計に話しかける。
「クロノス……。戻っておいで。いつの日か此処に。また、私と一緒に暮らそう。君が帰りたいと思ってくれるのなら……!」
血の繋がりなどない。幼少期と少年期にほんの少し面倒を見ただけだ。だが、殺戮を繰り返していたクロウドにとって、クロノスとの日常だけが、心休まるものだった。凍てついた氷を溶かす、一筋の光のように。
こうして、クロウドは、また独りの生活に戻った。だが時折り、天気の良い日は卵サンドイッチを作り、美味しい紅茶を淹れて、テラスで食べる。必ず傍には懐中時計を置いて。
「これを食べたいのなら、早く戻ると良いよ。クロノス」
そうしてにやりと笑って意地悪を言う。クロノスが懐中時計の中で悪態を吐いているのが目に浮かぶようだ。空は晴天で雲一つない。冬は終わり、芽吹いた新緑が、春風にそよいでいる。
クロウドは歌を小さく口ずさむ。クロノスと一緒に歌った歌。
君と出逢って、初めてわかった。君が教えてくれた。
愛という、人間の感情を。
【Fin】
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