第一章 夏のにおい 12


   12

 夜中にまとまった雨が降り、朝方は寒いくらいに気温がさがった。
 日本列島の南側を、台風から熱帯低気圧に変わった渦が通過し、そのせいで雨になったのだろう。東北の東の沖合へと抜けた低気圧が、冷たい空気を列島にもたらしている。
 今朝は散歩に出ることになっていた。これまでは寛子さんが付き添ってくれていたが、今日は真衣が同行してくれる。ひとりでも歩けると思うが、なにかあったときに心配だからと、寛子さんが気をきかしてくれた。
 いつもより一時間早い午前八時に、狩野真衣がやってきた。
 私はすでに外出のための着替えをすませていた。玄関に行き、傘立てにさしてあったステッキを取ろうとして、なんとはなしにいう。
「こんなものを使わなくてもほとんど大丈夫なくらい歩けるようになっているんですけどね」
 実際、家のなかでは、もうステッキは使うことはない。この春ごろから、家のなかではまったく使わなくなっている。ただ、外出のときは念のために持ってでる習慣がまだ手放せていない。
 私はステッキを傘立てから抜き、靴をはく。
 真衣は私を見ていたが、思いきったような口調でいう。
「先生、今日はステッキなしで歩きませんか?」
 その提案の意図がわからなくて、私は彼女を見る。
「お疲れになったら私の肩におつかまりください。でも、もうずいぶん回復されておられるなら、ステッキに頼らずに歩かれたほうがいいと思うんです」
 たしかに、と私は思う。
 私はうなずく。
「わかりました。ありがとう。では、そうしましょう」
 私はステッキを傘立てにもどす。
 私たちは夏の朝の、雨あがりの湿ってひんやりした空気のなかへと歩きだす。
 大気はさまざまなにおいに満ちている。木々のにおい、土のにおい、アスファルトの上で水分が蒸発するにおい、通りすぎていく車やエアコンの排気のにおい。それらはまた、音にも満ちている。鳥のさえずり、葉っぱのざわめき、子どもの声、車の音、蝉の鳴き声、どこかから聞こえてくるラップミュージック。
 玄関を出て左へ、そしてすぐに右へ、南に向かって——正確には南東に向かって、私たちはゆっくりと歩いていく。道路の左側に影があって、私たちはそのなかを歩く。朝とはいえ、直射日光は強すぎるからだ。
 真衣は私の右側を歩く。するとときに頭や上半身が直射日光を受ける。彼女が右側を歩くのは、私を交通からかばうためであること私は知っているし、彼女に左側を歩くようにいっても聞き入れないだろうことは推測できるので、私はできるだけ道路の左端に寄って歩く。


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