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執筆における耳栓の効用

長文(書籍)の執筆が一段落した。加筆・修正は必要になるだろうが、とりあえず、直近の締め切りは抜けた。ほっと息をつく。

このような心境のとき、思い出されるのは『ヴェニスに死す』の一節である。主人公のアッシェンバッハは国民的な作家。どこまでも自分に厳しく、かたい意志とねばり強さによって地位と名声を獲得している。

彼は知人(「ある明敏な観察者」)から次のように表現されていた。

「ごらんなさい。アッシェンバッハの暮らしかたは、昔からいつもこんなふうで、」と言いながら、語り手は左手の指をぎゅっとにぎり合わせて拳をつくった――「こんなふうだったことは一度もないんですよ。」――と言いながら、かれはひらいた手を、だらりと安楽いすの背からたらした。
『ヴェニスに死す』トーマス・マン(実吉捷郎訳、岩波文庫)

この表現のなかに、文章を書く人間が備えておくべき資質のようなものを読み取るとすれば、「いかにすれば『拳』のような状態を保てるのか」という点に集約されるだろう。「拳」のような状態とはつまり、深く、研ぎ澄まされた、「精神のたえざる動き(motus animi continus)」をともなうような、精神の集中である。

そこで私はあるものを使っている。
耳栓である。

執筆には集中力が欠かせない。それも可能な限り深く、持続的で、再現性のある集中力が必要だ。ただ体力の限界があることを加味すると、断続的な集中の繰り返し、その獲得を目指すことになる。

断続的な集中の繰り返し――。それは、無数の針と糸を、それぞれ手に取り、繰り返し繰り返し、穴に通していくような日常である。忍耐の日々である。

そうして「拳」はつくられる。

駆け出しの文章家は、「拳」の形成に自らの(薄弱な)意志を頼ろうとする。己の肉体を過信し、漲る五体で獲物を得ようとする。そして挫折する。打ちのめされる。自分がいかに「反応」に覆われた生活をしていたのかを知るわけだ。

慌てて通知を切ったスマートフォンを視界から抹消し、また画面(あるいは真っ白な紙)に向かってみると、今度は音や光が邪魔をする。無意識な反応を喚起する。危険予知、逃避行動、そういった反応を呼び起こす刺激になる。

反応は、動物の一種である人間の、自然な行為だ。むしろ書くことのほうが不自然な行為であり、精神の集中に工夫が必要なのも無理はない。文章家は、常に、自然に抗おうとしている。発想を転換しなければならない。

必要なのは五感の意思的統御ではない。制限である。五感を制限することで、執筆に必要な脳と心へのアクセス、その状態をつくりやすくし、かつ維持できるようにするのだ。

その、最も容易な手法が耳栓である。私が使っているのはモルデックス(Moldex)のメテオ。NRR(ノイズリダクションレイティング:騒音減衰評価値)は33dBと、国内で購入できる耳栓としては最高レベルである。パッケージは個包装。基本的には使い捨てであるため、衛生面も問題ない。それでいて、時間や場所を問わずに“聴覚の制限”ができる。このような、相性のいい耳栓を見つけられれば、執筆環境は格段に向上する。

私は夜、眠るときに耳栓をつけ、朝、起きてそのまま執筆する。すぐ執筆する。そうして不自然に抗おうとする肉体を騙す。脳を騙す。多くの場合、筋肉疲労によって意識が途切れるまでの、少なくとも二時間ほど、深く集中できる。

そのスタートダッシュが一日を規定する。精神の土壌をつくるのだ。

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