脳の栄養も重要。 2020.08.21

 ひとの脳は、最高で進化可能なハイスペック中央処理の思考回路。そんな脳も……

“どんな高性能でも、生きてるんだもの、栄養は重要。”

 そんな話。

日々、記憶を整理し、新たな経験を蓄積していく脳

 日々、色々な出来事が世界中で巻き起こり、思いに裏打ちされた人々が、住んでる世界や環境をよりよくするために、活動をしています。それは、社会の奉仕活動もそうです。決して自分に対して利益をもたらさない奉仕活動は、その活動によって自分が裕福になるということはありません。
 そんな活動をするにも、人は脳ですべての事柄を考え、その事柄に対する思いを抱き、解釈を加えてひとつの答えを導き出します。それは、人の数だけ存在し、あまたの数の未来を分岐させます。
 その彼が望むと望まざるを関係なく、今日より明日。明日より明後日というように時間が進んでいくことになります。この流れが当たり前で、この流れが繰り返されたことで、今の状態が作り上げられています。

 では、その未来を作り上げていくのは誰なのか。ほかの誰でもない“あなた”が未来を選択し、過去を作っていくことになります。
 こうして私のブログにたどり着いたあなたは、過去の選択がこのブログへの道筋をつけてくれました。多くのブログ記事が書かれる中、この記事にたどりつくことすら天文学的な数字が必要になるかもしれません。
 過去であなたが求めた答えを、このブログが提示しているかもしれません。これは、あくまでも可能性のひとつで、あくまでも分岐のひとつなのですから。

 とまぁ、脱線してしまいましたが、そんな人が活動するうえで重要となってくる“脳”は生まれながらにして、一人に一つ。それも、母親の母体の中ですくすくと育つ間に作られます。胎児はほぼ六カ月前後で、人の体を構成するパーツは作られるとは言いますが、その頃になると母親の母体で聞いた心臓の鼓動などは、立派な睡眠の子守歌になります。
 両親となる彼氏と彼女が、愛を育み大人への階段をのぼれば、必然的に母体のおなかには赤子が宿ります。そして、母体の性格や父親の性格をうまく引き継ぎ、この世へと性を受けることになります。
 これが当たり前で、ごく普通の人としての日常であり人生です。私は三十代後半の年齢で人生を語るなんて、六十代の先輩方に対しておこがましい限りですが……
 年齢を経て、五十代や六十代になった先輩方は、我々三十代では経験しえない貴重な体験を続けてきています。その情報は子や孫に“昔話”として伝えられ、貴重な体験として、後世に語り継がれることになります。

 ではそんな記憶を形作るのも……しっかりと、子や孫に“昔話”として伝えていくにも、やっぱり重要となってくるのは、人の中央で処理をしてくれる。記憶や運動期間を司る脳になってきます。

脳の栄養がないと、Oh~脳となりかねない。

 そんな重要機関で、壊れてしまっては一気に体がダメになってしまいかねないその脳は、どんな栄養を必要としているのでしょうか。
 よく言われるのが“DHA”や“EPA”などの、俗に言われる“糖鎖脂肪酸”といわれるメッセージ物質でもあります。脳と臓器でよくやり取りを行うことがあります。脳で思い描いた言葉や物語を、筋肉と関節を動かして、キーボードをタップして脳裏に思い描いた物語を、文字として書き出していくことになります。

 普段。何気なくしているこのことは、当たり前すぎて、再認識して考えないとその重要性に気が付きません。
 そして、この糖鎖脂肪酸は、脳からほかの臓器へと情報を伝達するために重要となってくるもので、これが消耗し足りなくなってしまうと、一気に緊張の糸が切れたかのように、思い描くことができなくなります。
 それは、多くの伝達物質を消費する、作家ならではなのかもしれませんが、頻繁に早く処理する脳内では、頻繁に伝達物質が行き交うことになります。その分、情報物質を消耗し、脳はその伝達物質を欲するようになります。
 そして、その物質が枯渇すると、まるで電源を切ったかのように、思考がまとまらなくなります。

日々増える新たな情報と、興味を引かれるものとそうでないもの。

 そんな絶妙なバランスで成り立っている脳を、いかに制御し、記憶の整理をしていくことになるのか、大まかに分けていくと二つの事柄に分けることができます。それは、貴方に対して、“興味があるもの”なのか、“興味がない”ものなのかによって、大きく分類されます。これは、脳が成長する段階から、亡くなるその日まで変わることはない不変的なものです。

興味のあるもの

 小学校や中学。高校や大学といった学び舎で過ごし、得た知識によって興味をそそられた内容は、脳の海馬に深く刻まれます。それは、忘れにくい“長期記憶”を形成し、あなたというほかに代えがたい、替えが効かないものを形作っていきます。
 学校で日々新しいことを教科書で学び、定期テストで赤点を取らないように必死に学習し、より良い進学校を目指すことになります。それは、誰のためでもなく自分のために行うことになります。
 しかし、学生の頃はそんなことを考える時間すら、もったいなく感じてしまいます。何しろ、思春期な上日々入ってくる情報の方が多く、多角的に見れるようになるのは、人によってまちまちです。

 そんな中でも、こんな出来事が起きます。それは、必死に覚えようとしているのにも関わらず、“忘れてしまう記憶”それが次の項目になります。

興味のないもの

 ここでは、分かりやすくするために、“興味のないもの”としてひとくくりにしましたが、ことは複雑です。単純な興味のないものだとしても、強く印象に残るものもあります。それまで目を背けていたものだったとしても、強く印象深い出来事と関連づけられれば、忘れられなくなります。これが……

“脳裏に焼き付く”

 という現象につながります。主に災害などの身の危険を感じて得た経験というのは、一生をかけても忘れないものです。
 この時は、こうした方がよかった。あの時、こうしておけばよかったんじゃないかと、あとから後悔する出来事に裏打ちされ、何度となく脳裏で繰り返されるために、忘れられなくなり、興味がなくても“覚えておくべきこと”として記憶されることになります。

 ではそのほかの出来事は?そうです。忘れます。よほどの特異体質出ない限り、人の脳は忘れるようにできています。そうでなければ、脳の処理を越えてキャパシティーを越えてしまうのです。
 記憶のアウトプットを行い、どこかで整理をしないと、記憶は永遠に続くことはありません。そのための一定の水準として、“興味のないもの”として分類され、眠っているうちに記憶から消去されることになります。

溢れかえる情報の中、取捨選択が必要とは言うけれど、選ぶ基準は?

 でも、こんなことはありませんか?ある事柄を体験した時……

“あれぇ?この体験。どっかでしたような……うーん”

 と、その時は思い出せないものの、どこかで経験したような感覚がある。それは、実際に経験したことなのです。では、なぜ思い出せないのか。それが次のことに関係してきます。その事柄が、“楽しかったこと”なのか“役に立ったこと”なのか、それとも“それ以外”なのかに分類されています。

知って楽しいこと

 血気多感な思春期を、旧友となる親友と共に学校生活を送りながら、貴重な経験を積んでいくことになり、このことが大人になってからの土壌となります。その中で得た、知って楽しいこと・忘れたくないもの。それは、成長していくうえでその人を形作る重要な柱となっていくことになります。
 血気多感なお年頃のこの年代はは、ある時は彼女のため。またある時は部活の先輩のためなど、多くの事柄で“○○のため”という言葉が多く使われます。
 それは心を育てていくうえで、誰かのためになることに対して、積極的になれる心を育成するために重要なプロセスです。それはいつしか、大切な人を守るために使われる土壌や柱となり、家庭を形成するための心の枝葉や苗木となります。

 よくこんな言葉があります。

“伸びすぎた枝は、切り落とせ。でないと、木がダメになる”

 と、これは、樹木関係の手入れの仕方から来たもので、確かに、大きな大木ほど樹齢に合わせて、枝葉を剪定しないとその大木全体がやられてしまいます。それは、根本となる大きな大木を維持するために、鉄則となっている行為ですがこれを人に当てはめてしまうと、ややこしいことになります。
 これから伸び盛りで新たな情報を入手し、枝葉を盛んに伸ばしていく必要がある時期に、このことをしてしまうと、伸びるはずの枝葉が伸びずにまるでロボットのような性格になってしまいます。

 より多くの知識を経て、知っていて楽しいことを記憶したというのに、剪定されることで、それに対する枝葉が伸びないのです。そのため、いとも簡単に教えられた事柄を忘れてしまい、あれ~?という現象へと至ってしまいます。

知って役に立つこと

 知っていて楽しいことのほかにも、“役に立つこと”にも同様の枝葉をはやす必要が出てきます。何しろ、“役に立つ”のですから。覚えておいて損はありません。
 ただ、これに関しては、好きで覚えている事柄からすると、幾分忘れやすくなります。何しろ、役には立つものの、頻繁に使わない場合にはその記憶が眠り続けることになるのですから。

 よく片付けられない人が良くやるのがこのパターンで、“いつか使うだろうから”とものをため込んでしまうのです。そして、その使う時は来ないという、宝の持ち腐れという状況が、脳内の記憶でも起こります。
 本来なら、もう忘れて新しいことに上書きしてもいいというのに、あの頃の記憶を引きずり、まるで執着しているかのような印象すら受けるようになります。これは、決して悪いことではなく、物思いに耽り過去の自分と対話するときには重要となってきます。

 しかし、それ以上でもそれ以下でもありません。つまり、忘れてもいいし、忘れなくてもいいという、中途半端な位置づけの記憶です。そのため、“あれぇ~、どこかでやったかなぁ~”なんて出来事が訪れることになります。
 最初の方にも言いました、過去が貴方をこの場所に導き、未来への足掛かりにすると、それは、きっとすぐや数日後には忘れてしまう内容でも、“ここに来た”と選択が、未来への足掛かりとなり、明日へ向かっていく扉の鍵となっています。

それ以外

 ではそれ以外の記憶は?
 “楽しいこと”“役に立つこと”それ以外は、人にとってどうでもいい事柄になります。貴方やあなたの生活に影響を及ぼさない範疇で、目まぐるしく変わる出来事に対して、注視していても、自分へと影響がないのですから、心や脳の許容を越えてまですることではありません。

 より深い器量を持ち、彼女を受け止めて包み込んであげるほどの器量は、持ち合わせたいものではありますが、その器を日々変わる事柄にまで割いていては、すぐに許容オーバーになってしまいます。
 そんなことがないように、器の成長と許容オーバーにならないように、定期的に発散しましょう。

日々、多くのものが生まれては消える中、覚えておくものと、消すもの重要さ

 まずは、ブログを書いてみるのもいいかもしれません。それは、自分の記憶の整理にもなり、アウトプットのトレーニングにもなります。
 そのほかにもブラインドタッチの練習にもなったり、当時の自分が書いていた日記を読み返し、あの頃を懐かしむ焦燥に浸ることもできます。人それぞれに楽しみ方があって、記憶の仕方も千差万別あります。
 画像で記憶することが得意な人もいれば、音や文字で覚えた方が頭に入りやすいなど、色々な覚え方が用意され、探せばいくらでも出てきます。
 自分に合わせた、一番しっくりくる覚え方で、楽しく今日より明日明日より明後日のように、発展していきましょう。その能力は“誰にでもある”のですから(`・ω・´)b

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