大化の改新はなぜ起きて、のちの日本にどのような影響を与えたのか

大化の改新は、日本が律令国家として歩きだすきっかけとなる政治改革で、645年の乙巳の変(いっしのへん)がきっかけとなりました。

大化の改新はなぜ起きて、のちの日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

まず当時の状況ですが、豪族と呼ばれる地方領主の力が強く、蘇我氏が政治の実権を握っていました。

豪族たちが集まり、政権をまとめやすくするために導入した支配制度が氏姓制度です。豪族たちに身分を与え上下関係をつくって支配しやすい体制をつくっていました。 そしてこの頃の政策は占いや、まじないによって政策が決められていました。

・・・原始的ですね


一方、大陸に目を向けると、中国では618年に唐がおこり、律令を中心とする中央集権的な国家ができつつありました。

律は刑法、令は行政の枠組みについて定めたものです。日本でも後に真似て大宝律令が制定されました。中央集権的な国家は律令制度の導入でようやくスタートできるといった印象もありますね。

そして唐は高句麗への遠征を開始したため、唐の脅威を感じた倭国では、中央集権的な国づくりを急ごうとする気運が高まります。

しかしこの頃の倭国は前述のとおり豪族が氏姓制度を利用して好き勝手な政治を行っていました。

そこでこのままではいけないと考えた皇族の中大兄皇子は、中臣鎌足とともに、蘇我入鹿を暗殺します。

これが乙巳の変(いっしのへん)です。

宮廷での儀式を装い儀式の最中に中大兄皇子たちが、蘇我入鹿の首をはねたと言われてますから、クーデター的な騙し討ちだったのでしょうか。

少しかわいそうな気もしますね。

ここから始まる政治改革を、大化の改新とよびます。701年に大宝律令が制定されるまでかなり長い月日を要します。


乙巳の変の翌646年に、第一歩目の改新の詔を発令し律令国家の礎を築きます。


改新の詔の内容

・公地公民制

有力な王族や豪族が治めていた私有地、こちらは個人が土地を所有することが禁じられ国家が直接支配するように定めました。

・国郡制度による地方行政組織の形成

・班田収授法による戸籍と土地の分配

・租・庸・調の税制

こうしてみると今の日本の基盤にもつながりますね。律令国家の建設は大宝律令制定以降も継続されていきます。
そしてこの大化が日本で初めての元号となります。


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