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2024.6.10 mon 晴と曇

雨が降りきれないのか湿気が多い。
夕方出かけるもちょっとハプニングがあり、バイクを押して3号線を歩き、下り坂になったところで久々にエンジンのかかっていないバイクと一緒に転がり降りた。どうにか少し遅れて到着した。

夕方、「知ってるようで知らない半導体のこと」藤原寿和さんの講話へ。
熊本にTMSCが来るにあたって、半導体の良い面もだが、マイナス面もしっかり勉強をしようという会だ。
昼過ぎ、主催の人からお知らせのメールで、ちょうど予定が空いていたので行くことに。前から気になってはいたものの、よくわかってはいなかった部分もあって行くことにした。

企業誘致に湧く熊本の異様さをみながら、昔の水俣もこうだったんだろうか…と重ね合わせることは度々あった。
今優秀な学生は半導体を勉強したが有利だろうと、今時、アメリカでも欧米でもなく、台湾へ留学すると言う話を聞く。
確かに賢い選択かもしれない。でも同時に複雑に思う。

地下水の大量取水、工場排水から地下水や河川、海への汚染、化学薬品からの影響は想像に難しくはない。
化学的な部分は少し難しくて理解できなかった部分も正直多かった。
その影響で、Y染色体の減少や発癌リスクにもつながるそうだが、これは今回に限らず、水俣でも水銀が流れされていた当時に生まれた子供たち(胎児性、小児性水俣病患者たちと同じくらいの世代)は女の子が生まれる割合が少し多かったのだという。

そして、今熊大生が水俣へ水俣病の勉強をしにきているらしい。
きっと昨夜、大人数で徒歩で来客した若者たちだろう。
8年?ほど続いている水俣病学習が今度から予算の関係で出来なくなったという。
東大に続き、熊大も学費の値上げを検討しており、予算削減や電気代の大幅4割値上げの打撃などいろんな要因があるそうなのだけど、教育へまで影響していることには驚いた。教育は全てだと、祖父から教わり、私自身が勉強を疎かにした分よく思うのだけど、そこは削減してはいけない部分だ。

TMSCに限ったことではない。どこもそこも自然に負担をかけている。
海も静けさがいつも気になるのだけど、何かの予兆じゃないだろうか…
ふと、レイチェル カーソン の 沈黙の春を読み直したくなった。読み直すと言ってもしっかり通して読めていたわけではないので読み始めると言った方がいいだろうか。
今起きていることではあるが、今突然ではなく、こうしたことは繰り返され続けている。
自分の声の出し方を考えたい。

ふと先日見た映画「悪は存在しない」を思い出した。
思うことは先日書いたものの、それでもこの映画の構図は今ここで起きていることそのものだ。
そして、悪は存在しない、というそのタイトルと内容を今一度思う。
会社と住民の板挟みになる人物や、最後の展開に至るまで。それは水俣の自殺した環境省のことや、映画では設営されるまでの展開はなかったが、企業と自然のサイクルの中で暮らしている人の暮らしを奪われていったことなど、その複雑さは重なる部分もあった。
確かに悪は存在しない。誰が、と言えば原因企業は悪ではあるのだけど、そこで働いた人やその周囲の複雑さは悪としようがない。

同時に映画「部落のはなし、私のはなし」も思い出す。
被差別部落という説明のしずらい部分もわかりやすく、地名総鑑を復刊させようとした組織、そして差別的な意見にまで耳を傾け、その問題の根深さ、無意識な差別も含まれ良い映画だと思った。

私も、批判も含む声を今聞きたいと思っている。
それが水俣病が引き起こした本質も孕んでいるように思うからだ。

だけど、ふと思う。
中間、あいまい、あわい、などいくつかのキーワードが今あげた映画や自分の意図、それ以外にも見かける作品に含まれるようなことが少なくないように思った。
今の時代、そしてこの今の世代、を表しているように思えた。

私たちの世代は、団塊の学生運動が盛んだった時代の人たちの強さとは明らかに違う。逆にその強さに圧倒される、というのもあるが、ちょっと煙たさも感じて引いている部分もあるんではないだろうか。実際私自身も運動の家で育ち、強制参加させられる集会や活動が嫌だった。今ここにいて、運動体質が嫌いだと言うと誤解を受けそうだが嫌いだった。
だけど嫌い合うのは同族嫌悪だともおもうのだけど、これもまた同じ穴の狢
のように思う。声の出し方が違うにしても、出さないにしても、時折言動や姿勢にやっぱり否定できないものがあるような気がした。

批判の中には無知がある。
私の運動体が嫌い、というのも無知があったように思う。
水俣のことを考えることは、自分自身を見返すことでもあると思う。
問いが生まれて、自分への問いへ変わっていく。

私は高校で初めて地元の飲食店でキッチンのバイトを始めた。バブリーな看板に誰もが見覚えのある店だ。
初めての仕事は、仕事らしい仕事もできず、要領もわからなかった。
数週間経った頃だろうか。出勤してキッチンへ入ろうとすると話が聞こえてきた。
「あそこんとこの子よ、この辺じゃ大体知っとらすよ」
とおそらく私のことを言っているのがわかった。
地元だからそんなものだ。

開放運動をいていた祖父は何かと運動団体や地域の役員をしていた。
その直後のことだった。
バイト先へ出勤したら様子が何か違う。今まで笑顔で挨拶していた主任や店長も突然態度が変わり挨拶をしても冷たく返されたり、料理長からは同期のバイトと同じ作業をしても一人怒られるようになった。バイト同士でも、いつも仲良くしていた一人を除いて、空気のような存在になってしまった。
長く続くはずもなく、若気の至りで祖母の体調が…と嘘を言ってやめた。

その時に思った。
祖父があんな活動(解放運動)なんてしているからだ。なんでそんなことで、こんな目に遭わないといけない…と思い、それ以降、何も知ろうとも触れようともしなかった。
何より、小さな頃からそうした場にいて、知ってて当然、と思われていたことも負担だった。何かを尋ねた時も、どうしてこの子は知らないのか、と祖母に母が怒らる。聞いてはいけないんだと思って触れないようになっていた。事なかれ主義というやつだ。

祖父は家の中では、仕事や運動の話は一切しなかった。いつもニコッと笑って頬を撫で、たわいもない話もするが、とにかく優しすぎる祖父が大好きだった。何より、父はいつも長靴をはいて作業着のような格好で魚屋をし、学校をサボれば一緒に仕事へ行ったり遊び仲間だ。対して、祖父はいつも背広を着ていて、会議やなんやと仕事はよくわからないが、大学を卒業し、字も綺麗で賢くて、とにかく優しくて尊敬する存在だった。

水俣病のことを知るようになって、自分のことやその周囲のことと重なることもある中で、思いの外知らないことが多いことに気づき、祖父に運動や思いを知りなおしたいと思ったが、祖父は最後まで口は開かなかった。
熊本を離れる2ヶ月前に祖父はこの世を去った。最後まで悔いが残る。

亡くなった後、仕事上、同和教育主担者と当時呼ばれた同和地区に配置されていた教員と交流が深く、そうした人たちが小さな追悼の会を開いてくれた時のことだ。
その会の話の中で、祖父は「部落民が朝鮮人じゃないと知った時にほっとした」という部分があった。被差別部落は朝鮮人の末裔と思っていたが違うとわかって安堵したのだという。ちょっと待て、と思った。
なんだそれは。部落差別反対、なんて言いながら朝鮮人は差別して良いということか?と、ジリジリとしたものが込み上げてきた。
そしてそれを読み上げる教員たちの中に、そのことを指摘する人は一人もいない。追悼という場もあるかもしれないが、一気に虚しくなった。

映画「福田村事件」で瑛太扮する役が、殺される直前に「鮮人なら殺してええんか」と言い放ったが、それに尽きる。
私は、その言葉を聞いた時、もともと距離を置いていた運動体に、さらに追い打ちをかけるように拒絶反応が出てしまった。
差別を受けたものが、無くそうと声を上げ、戦っていても、他の事柄には平気で差別的な発言をする。または攻撃をする。

差別は無くなることはない。人は人を下に人を置くことで、自身の立場を確保し、自分を守っていくのだろうか。
私が、自覚という言葉に使う背景には、この時の虚しさや違和感がある。
祖父のことは大好きなのだけど、大嫌いだと思ってしまった。

時間が必要だったけど、今は思う。
そのあいまいさ、あわいという部分で何かをしようとする私たち世代は、直接の差別を受けていないことの方が多い。中には、同じように差別された人もいるだろう。しかし現代の不可視な分、マイクロアグレッションのような日常の中で生きづらさを感じてはいるが、露骨に結婚、就職と人生の一大事に出自が元で何かをなくす、ということは私や近場では経験がなかった。

だけど、水俣病を知り始めた時、同時に、自分のことも知るようになって、自分の置かれていた状況がわかってきた。
家では口にすることがなかった分、何も知らいない。でもその知らずうちに、いかに守られてきたのかと思うことが多々あった。
経緯や、利用された制度など、まだ詳しく理解できていないが、祖父やその年代の運動をした人たちの行動があってこそ、私たち世代は直接的な差別を受けずに済むよう、逃がしてくれたようなものではないだろうか。
私はこうして自らこの話題に触れず、語らなければ、無関係でいられた。それが良いかと言えば違うだろう。
だけど、職場で嫌な思いをしたとは言え、運動は間違ったことをしていたのではない。わざわざ落ち込む所ではなかったし、胸を張っているべきところだった。

渦中にいて、自分が差別を受けても辛いだろうが、ましてや子供がとなった親の怒りを私は想像できない。できないが、その怒りは時として人を鬼にかえるくらいのことは容易いだろう。だから他者へ向けられる差別的な発言を許して良いということではない。

でも、私は戦ってきた人たちが作ってくれた線の上に生かされている。
そのことをどこか胸の片隅に置いておきたい。

今後この会社がどうなっていくか、その周囲や影響も含めて見ていきたい。
そして、自分の声の発し方を考える。

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