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貝を拾ってタダで生きてみようと浜を歩いたら。

「春三月、村人たちが海岸に下って必ずこのビナを採った。必ずというのは、もしこの時期のビナを採って食べなければ、ヒトはみな巨大なウジムシに変身してしまうと信じられていたからである。」
というのは、最近読み始めた水俣病に関する聞き取り本の一説である。
ちょうど貝を拾いに行ってすぐ後に読み、面白おかしく最後は安堵した。今年はウジムシにならずにすんだらしい。

数日前の午後、ふと思いつきで潮の引いた15時過ぎに貝拾いに出かけた。
熊本と鹿児島の県境にある境川の河口に、いつも散歩で出掛けていくが、その日はバケツにドライバー持ち、カメラをぶら下げ、おっちゃん仕様のコンテナ付きのバイクで向かった。どうみてもちょっと怪しく見えるのは致し方ない。生きていくのはサバイバルだ!気にしていられない。

境川の河口は潮が満ちた時は一面海が覆うが、引いた時は100mほど小さな岩がゴロゴロとした浜が広がる。
ビナ(巻貝)も好んで住み着いてそうな美味しそうな浜だ。
河口には大きなお屋敷とその先に2〜3件並んでいる。
いつも歩いてくるうちに、そのうちの1軒のお母さんと仲良くなった。
いつも堤防脇の花壇に花を植えたり、雑草を抜いたり、何かと土仕事をしている時に遭遇する。この前久しぶりにあった時には、「久しぶりにどがんしとるかて思いよったよ〜」と互いに再会を喜んだ。その時は、ちょうど切干大根用に本当に足のような太さの大根を料理に合わせいろんな大きさに切り分けていたところだった。
「大根ばもっていきなっせ。ジャガイモは持っとる?ないなら持っていかんね」と散歩中だったが大きな大根と長島の規格外で売れはしないけどと立派なジャガイモやさつまいもを持たせてくれたこともあった。

この日の目的は、食費節約のためにタダで食料を獲得しようという魂胆だ。
ビナなどのそのままゆがいて食べれる貝類を確保することと、さらに欲を出し、餌にするためのイソガニやイワガニなどの小さなカニを捕まえて翌日潮の満ちた時にさらに大きな魚を狙うこと。

その日の干潮は18時台。
15時過ぎの到着は少し早かったか…と思いつつも浜へ行ったらちょうどいい塩梅に潮が引き始めていた。
河口から伸びる堤防の付け根に使われていない小舟が一艘浮かぶ小さな入江が造られている。船を海に出せるように斜面が作られており、そこから浜へ降りられるようになっている。

海も春の装いになる。岩場を歩けば、人の気配に気づいて隠れようとする貝たちがコロコロっと転がっていく足音。カニも捕まらないようにと岩陰にカサカサと走っている。潮の行き交う浅瀬の藻場には岩に海藻を生やし水に浸かれば踊り出す。

早速海へ、と思い一歩目を踏み出したら坂道に生い茂った苔で足を滑らせ自分でも驚くほど威勢よくコケた。先行きが心配だ…ズボンのお尻も泥と苔で汚れ、海水も染み込み気持ち悪いけど、貝を拾ってれば乾くだろうと沖へ歩き出した。そういう細かいことはあんまり気にしない。

潮の満ち引きで、潮が引き、地面が顔を出す時間が長いほど(陸地に近いほど)岩場の海藻は少なく、潮が覆う時間が長いほどアオサのような小さく短い海藻が繁り始める。そして、その境を潮の引きに合わせながら岩を返し、獲物を探しながら歩いていく。岩を返すと隠れたはずのカニや貝が一斉に逃げ出す。
逃げているところ申し訳ないが、こちらは逃げられまいと大きなビナや釣り餌にちょうど良さそうな小さめのカニをさっと捕まえていく。
2cmを超える大きなビナに遭遇した時には、まるで宝物を見つけたように、目を丸くして見つめてしまう。宝物なんて言っておきながら、夕食で食べることだけを楽しみにヨダレを垂らしたような顔で覗き込まれる貝もたまったものじゃないだろう。しかし美味しいのだからしょうがない。人間は残酷だ。

大きな貝を狙って、片手ではひっくり返らないような岩をたまにはひっくり返してみる。そうすると、かなりの頻度で出くわすのがムラサキクルナマコ(クルマナマコ科)という黒くぬるっとした親指くらいの太さの体つきで群れているナマコがいる。ここぞとばかり住処を荒らす人間を驚かしてやろうと、岩の下でたむろしている。いや、それは私が苦手だからでっちあげた嘘で彼らがゆっくり休んでいる家を荒らしただけだ。しかし、出会した途端背筋がぞくぞくっと凍りつき、何もみなかったかのように静かに岩の扉を閉めていく。
かと思えば、カニの群れにも遭遇することがある。メスの蟹の中にはお腹に卵を抱えこれから産み落とそうとしているものもいる。そして生まれてきたのだろう、蟻ほどの小さなカニも数えれないほどいるのだが、大きなカニは我先にと逃げていき、小さなカニも必死に後を追いかけて逃げていく。
磯の岩陰にも春が来ていた。
海の中もさぞ賑わっていることだろう。
ここに潜む私のアンコンシャスバイアスに気づいた人はどれだけいるだろうか。

ここで写真を撮る。と住み着いて撮ることを決めたものの撮ることの難しさに加え、最大の課題は収入の問題だ。
どこにいても、どんな分野でもこの問題はあるだろう。
ただこちらに来て、一番苦労するのはいつも職探しだ。私のようなイレギュラーな働き方はまた特にだろうが、地方とはいえ中心部にいた時は、何かしら仕事はあったし、掛け持ちに掛け持ちを重ねても誤魔化しが効く。
だけど極地方はまず求人には介護職ばかり。縛られると撮影に支障がでるから就職ではなく、バイトで職種を選ばなかったとしても、融通の効きそうな仕事は大抵最低賃金だ。
だけど案外そこは割り切って、まあどうにかなるさ、どうにでもできるさ、という気がした。お金がない、時間がない、は切実だがいいわけのようなところもあるような気がする。必要があれば、どうにか踏ん張ったり何かアクションしてみるものだ。
人に会って見せたり、機会や作品を作る努力は怠ってはいけないが、無理強いは逆効果。特に撮影は、相手がいて自己完結でできることではない。ましてやセンシティブなことは、通ってくる分にはSNSやネット上にも書きやすくあるだろうが、住んでいると個人情報にもなるのでそうも行かない難しさがある。
「自然」ー「自ずから」「然るべき時」
自然という字の通り、自ずから動くことを怠らず、でも時は然るべき時に合わせる。または、然るべき時はきても自ずから動いていなければ、実らず流れていく。

しかし、なんせ水俣だ。
山へ行けば何か食べれる草が生え、海へ行けば魚も貝もいる。
やっぱり、まあ、どうにかなるし、なんとかなるさ!生きてれば。

写真のことやその周辺の仕事には細かいかもしれないが、基本的性格は我が家はみな楽観的で少々ガサツが取り柄の家族だ。
そう思って飛び込んだ8年前の今頃も、熊本の自宅から持ってきた小3か小4の時に買ってもらったルアー竿に簡単な投げ釣り用の仕掛けをし、魚を釣って食べていた。
大体ガラカブ(熊本での呼称、正式にはカサゴ)か、砂地ならキス、ベラ、時々大当たりでタコが釣れた。歩いて行ける場所に海があり、釣りに行ける環境は天国だ。
30代半ばにもなれば周囲は仕事でも家庭でも安定し始める。私は今も苦学生生活だ…だけど8年経ち、今も足掻いていることに変わりはないが、それでもどうしたいかもわからなかった時から比べると、形にするためにどうしたらいいかということの足掻きに変化し、少しずつ進んでいる。人より器用でない分、やっと一歩くらい進めたかもしれない。

話は少し脱線する。
5年前の冬、念願だったカンボジアで開催されているアンコールフォトフェスティバルのワークショップ参加権をようやく手に入れることができた。
ワークショップは、3日間で撮影し、チューターとミーティング、撮影、エディットと繰り返し、最終日に発表することまでが課題となる。
こうした機会は、一つのトレーニングと思い何度か参加してきた。独学の身からすれば唯一人に学ぶ機会でもあった。
ワークショップはアジア中からの応募者の中から30人が選ばれ、参加できるというもので、チューターは各グループ1〜2人ずつがつく。私のグループのチューターはマグナムフォトというドキュメンタリー写真を撮っていれば、撮っていなくても大抵聞いたことあるエージェントに所属する二人がチューターだった。内容についての話をしだすと長くなりそうなので、内容には今回は触れないが、そうした最前線の現場で活躍する写真家たちから教わる機会は貴重でもあり、選ばれた参加者も学ぶ姿勢というか熱量も違う。
調査の段階で、カンボジア人で日本語のできるでトゥクトゥク運転手からも色々現地事情を聞いた。
その人の家は、農家だったそうだ。日本のように、稲作が盛んな地域でもあり、トンレサップ湖では漁業も盛んで、半農半漁で生活するものも少なくない。
ただ、その人は言った。
「確かにそれで食べるには困らならず生きていける。ただそれでは教育が受けられない。」
現代は資本主義だ。
教育を受けるため、または兄弟が学校へ行けるよう、家族が生活できるよう、家を建てたり修繕するにもお金は必要になる。
地元の賃金より多く稼げる外貨を獲得するために、必死で日本語や英語という言語を獲得したのだそう。
シエムリアップ郊外にあるアキラ地雷博物館を設立したアキラ氏も同じように地雷撤去活動の費用を獲得するために、言語を獲得した。

山へ行けば食べれる草や実がなり、海へ行けば魚や貝が獲れる。
確かに生きては行ける。
だが、タダで生きられたとしても、収入を獲得していかなくては選択する権利すらない。

もう一つ、ぼんやり海で魚を釣りながら想像した。
水俣病裁判の中でのやり取りで、裁判官は「なぜ病になると知っていて魚を食べたのか?」と患者に聞いたという。
言葉は違っていても、こうした問いは何度となく繰り返されてきた。
災害が起きてもそこに住み続けるのはなぜか?という問いもよく似た質をしている気がする。
ここで思う。
教育、仕事という以前に今日どう生きぬくか、今日食べるものがない、買うお金がない、という時に、「なぜ病になると知っていて魚を食べたのか?」という問いを発するその心理が私には理解できないでいる。そしてまだうまく言語化できないでいるが、人間が生まれ育つ土地に土着する心理はそんなことではない。
目の前に広がる海に行けば食べ物がタダで釣れる。貝が拾える。

今のようにTVが各家庭にあったわけでもなければ、スマホのように世間の情報が入ってくるような環境でもない。ましてや、現代の識字率はほぼ100%だが、少し前の農村や漁村は子供でも大事な労力で、子供が子供の面倒を見たり、奉公へ行くことも珍しくない時代は、そう遠くない最近のことだ。山間の集落や漁村では、ある一定の年代から上はまだそうしたことが当たり前にあった時代で識字率は高くはない。それは黒岩を取材する中で学んだことであり、そのことに気づいて以降、確認したい原稿は朗読するようにしてみたり、私には識字運動をしていた大叔母がいたから想像に難しくはなかった。
だけどそういう私も、水俣へ来て、取材する中で知ったり、何より今、収入がなくなって、苦肉の策として同じような境遇を経験したからこそ、その問いを抱けるのかもしれない。
理屈を知っただけでは知ったことにはならない。知識としての理屈に、"経験"などの実体験を通じて、それが伴った時に「理論」になっていく。

そこからもう少し進んでみる。
見えずとも社会階層はしっかりと、そしてくっきりと存在する。
被害を訴えるものと、それをジャッジするものとでは階層は違い、育った背景も違うのだから当然とする常識も異質のものを所持し、互いに理解し合えることはなく食い違い続ける。
公平というものは存在するのだろうか。

裁判官に限ったことではない。
こうした問題を、表現として、またはさらにその表現を扱う、私やそこに関わる人たち、そして他の職種も他者性を持って関わること自体、触れる選択のできる、ある意味での特権階級もまた、違った層でヒエラルキーを形成しているのではないだろうか。
水俣病のような"病"や"障がい"、自然災害、というようなこれは一部の例でしかないが責めようもない天、または企業のような絶対的な加害者がいたとしても、眼に見え、実像として存在するので、経験せずとも少し捉えやすく、触れやすさ、考えやすやがあるように感じる。
しかし、実際に何度も経験してきたが、水俣病やハンセン病などを含む病、障がい者福祉、自然災害ということに関してはとても熱心だが、眼には見えない不可視な差別の問題には、無意識に差別的な言動が増え、制度で獲得した保証金や保証制度を受けることに関しては割と安易に"逆差別"と吐き捨てたりする。もしくは黙り込む。
見た目にわかりやすくても、わかりずらくても、内包された"痛み"を何かしら感じていることがある。それは叩いたところが痛む訳ではなく、違う場所や外から触れられないような内臓とでも言おうか、痛む箇所も痛み方も皆違った現れ方をする。痛みと思わない人も当然いる。
私は単に、小さな頃から日常に潜む無意識の差別(マイクロアグレッション)を受け取りやすい環境で育ち、違和感を感じ続けてきたから、そう思うのかもしれない。だが、別の問題では私もマイクロアグレッションを生み出す立場になりうるだろう。経験者だけ、当事者が触れられる、語る資格を持つことは、とても重要なことである一方で、ときに危うさも孕む。
"無意識の差別"(アンコンシャスバイアス)は、社会階層や立場が違うことだったり、経験したことがない、知らない、ことが火種となることが多い。
"差別"ということ自体がこの"無意識"、"無知"に根源を持つように思うが、その時に差別をする側、生み出す側というのは、大抵が当事者とは対極にいる。もちろん当事者からも生み出されることがある。もしくは当事者だが、差別を受けた痛みへの反動として、自分を守るために加害側へまわることもあるだろう。いじめられっ子がいじめっ子になる構図と同じだ。

特権階級からの"無意識な差別"というのは実に多く、あらゆるところに潜んでいる。高校どこ文化でも少し記載したが、出自、出身校などと同じように、性格での判断だ。よく知っている仲であればそれは有効でもある場合も少なからずあるだろう。しかし、よく知りもしない間柄で人格での判断は違和感を感じる。人は安易にその素顔は見せず、慣れない人にはよそ行きの顔をする。
人を選定する際にも、こうした社会的カテゴリーや人格から"無意識"の偏見が生じている。お国柄、地方はなお濃く、こうしたものを軸にした繋がりが重んじられることも"文化"となってしまうように思う。
特権から生まれる"無意識"は自覚しづらい。しかし、社会の落とし穴はそうした場所に点在している。

社会問題に触れたり、ドキュメンタリーを撮影することは、触れる選択をしたその時点である特権を持つのかもしれない。だから正義や糾弾とされ善とするものも現れる。表現活動といえど人によって財を産むこともあるだろうが、それは一部で大半は産まないことが多い。だから貧がついてくることは多い。だが、扱うということを選択できた時点で特権を持つのではないか。現にその中の多くは、専門分野や大学、大学院までの教育を受け、それを基準として層を形成することが常だ。
その特権を持つもの自身が、特権ということ自体を自覚し、介入していることの迷惑や"無意識"に対し、立ち止まりながら自身へ問い続けるほかはないだろう。

大きな貝を拾いたくて、両手でないとひっくり返せない大きな岩をひっくり返してみた。
そこには、海鼠の群れがいて、アリンコのように小さなカニから卵を産み落とそうとする大人のカニまでたくさんのカニ住んでいて、身を隠して隠れたフリをしても、殻は隠れないからやっぱり隠れきれない貝がコロコロと転がっていく。
岩を返す特権を持ってしまった人間が、岩の下にある多様な種が共存している小さな村を荒らしていった。
貝を拾ってタダで生きてみようと浜を歩いたら、小さな岩の下の大きな社会に遭遇して、ヒエラルキーを考えた。

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