2024.5.31 fri 晴
晴れ。眠いのに眠れずとうとう朝になりかけている。
やっと眠れるかと思った4時半過ぎ、ガタガタガタッと小さく揺れたような気配がした。
数秒後、建物ごともう少し大きくガタガタガターーーと揺れ出した。久しぶりに少し大きめの揺れに完全に目が冷めてしまった。
長い時間のことではないのに、恐怖心が景色をスローモーションに変える。
バイクで転倒する時と同じだ。
どこまで強くなるのかわからない。外からガタンとどこからか何かが倒れた音がした。
さらに数秒か数十秒後に揺れは治ったが、振動が体に残った余韻か、微弱な振動が残っているのかわからない揺れが続いた。
もうそのまま目を覚まして本でも読もう。
と思っていたら、睡魔がやってきた。数時間眠るも頭痛と共に約束の時間が近づいてきたので、目を覚ます。
昼前、昼食を持参し、袋は月の浦にあるおれんじ館へ向かった。
今度の展示にあたって、もう少し話を聞いていたいと思い、時間が比較的ゆっくりできるとのことで日中滞在している時に訪ねていった。
私とこの人との縁はちょうど3年前の今頃のことだった。
その前の年末までディーラーで洗車のバイトをしていた。待遇はいいのだけど、訳あって年明けから始まる展示の準備期間まで、と決めていたので年末でやめて1月中は準備をしていたのだけど、いざ展示が始まって仕事を探そうにも見つからない。水俣で一番苦労するのは職探しだ。
ただでさえ求人も少ないが、撮影や写真に関することが最優先なので融通のきく仕事という条件もなかなか難しい。
しかし、生活自体も厳しくなりつつあり、SNSに職求む、と書いたところ知人の一人から働く人を探しているという連絡があった。
それが今回の撮影につながっているのだけど、ある施設の介助の仕事だった。
その施設は、湯の児にある病院の敷地内にあり、胎児性水俣病患者が家族や友達と過ごせるようにとつくられた施設だ。
当初は昼間の滞在に利用されていたそうだが、泊まりもするようになったという。
介護職ではあるが、訪問介護ではないことと、ここでの仕事内容であれば介護資格はなくても簡単な介助のため働けるということだった。
しかし、介護職は経験がない。そして、身体障害でもあるということで介助と言っても何をどうすればいいのか検討つかずに、当初は自分で務まるのかという不安で、仕事があることはありがたいけども受けていいものか悩んでいた。
そうは言ってもやっぱり仕事はなく、ちょうど同じ時に、少し面白そうで時給のよさそうな鶏の仕事もこの年の春に始めたが、どうにも求人内容と実際が違い、取材費用どころか生活費にもならなかった。ただちょっと面白いので今も続けてみている。仕事には不安があるが、受けることにした。
同時にこうした距離感で水俣病ということにも関われることもありがたいとも感じていた。
最初に二回、ベテランの方と一緒に勤務し、その次からは一人で勤務した。
介助と言っても、私の勤務の時は利用者は一人で、移動などの動作に手を貸したり、軽く支えたりするくらいだったのでどうにかできることはできた。
ただ二人の時に何を話したらいいものか、最初は互いに気を使い合い、様子を見ながら話してみる…というぎこちない空気が漂っていいた。
この利用者である人が、今撮影している人だ。
少しずつお互いで確認しながら進めたいので、まだあまり細かくは書かないでおきたい。
胎児性水俣病患者として、水俣病の実態と現実を中学生の頃から世界に訴えてきた人でもあるので、水俣病のことを知ろうと調べていると必ずというより何度も目にする人だ。
「私の姿を見てください」と自分の姿、存在をもってして訴えるその姿には、水俣病のことを知り始めた頃の自分には到底真似ができない、強い意志の姿に圧倒され、対等に正面からカメラを向けられる気がしなかった。
そして、慰霊祭へ行っても、マスコミと同じように式終了後の取材の群れに入ろうとも思えず、ただ遠くで見ている存在だった。
何より、黒岩で取材をしながら、水俣に住みながら、そして時折写真関連のことで県外へ出た際、現代の水俣は、発生当時、闘争が続いていた頃の病像や土地の印象を未だ引きずっているようで、水俣の人の中にはそうした印象で見られることに対する生きづらさを感じている人も少なくないように思えた。
学生の頃、修学旅行などの旅行先でどこからきたか言えない、言ったが水俣病がうつるなど揶揄われた、馬鹿にされたというようなことはよく耳にする。
そうした出自に対する後ろめたさは、水俣病ではないが、自分でも同様にもったことがあるので、その心情が少し感覚として近く感じることができた。
だからその時の私は、"水俣病"の固定概念を払拭したいとばかり思っていた。
払拭というのは、辞書で調べると「払ったりぬぐったりしたように、すっかり取り除き消し去ること。」と書かれている。
私は黒岩で取材をしながら時間を追うごとに、この払拭したい、要は消し去ろうとしていたのだけど、ふとその認識の危険性を自覚するようになった。
払拭したいとは言っていたものの、あまりの深く考えれていなかったように思う。
なかったことのように、普通の街で、綺麗な海と言おうとしていた。
現状として、市が打ち出すことは大抵そうした内容のものが多い。
今年の5月1日、慰霊式では環境省が患者団体や患者の発言中に3分でマイクの音を切ったことが話題となり、Twitterでも一気に拡散して、あらゆる人がそのことに声を上げ、激怒し、ネットの影響もあり、謝罪することになった。
水俣ではこれに限ったことではなく、水俣病関連のことには市からの予算が縮小、打ち切りになったり、公共スペースの利用許可がおりないなど、未だに、というより、今は特に水俣病を除外しようとする動きをどこそこで見聞きする。残念極まりない現状なのだ。
だけど、県外に出ると未だ病像や土地に対する暗い印象の強さ、または無関心さ、はたまた、これぞ"水俣病"のような印象や時代を更新できていない印象もあり、そのままなぞるような写真を撮りたいとはやっぱり思えない。
常に、"今の水俣"をどうしたら表現できるか、解決できることもなく、考え続けながら、動き続けることしかできない。
答えが出るわけでもない。
答えを出すことは誰にもできなくて、だけどこの"考え続ける"、誰かの中にそっと在り続けることが重要なのだと思う。
過去を知り、これからを考える。
今という時に、どう考えるか。
だから払拭するのではなく、"上書き"し続けるのだと思う。
水俣へ来た当初からの思いで、水俣というシンボリックな名前は安易には絶対に使いたくない、使う時は、この土地の多様さ、複雑さを自分なりに取り組めるだけの覚悟ができた時だと思って、ようやく動き出せたのがポートレートシリーズだ。
多様だなんだと言いつつも、私は水俣で直面することが多く、胎児性患者をふくめ水俣病被害者、その周辺、関係者の一部を除いて、ほとんど直に接することはなかった。
そして、病像をなぞるような写真は撮りたくないとしつつも、知らなすぎる。それが自分の現状だ。
この介助の仕事をするようになって、その人がメディア上では強く見えていたが、実際一緒に過ごすと、ずっと悩んで悩んで、悩み続けて、小さく丸くなって眠る。やっと決心して動き出すものの、やっぱりまだ悩んでいるように見えた。かと思えばあっさりしていて、懐の広いと言えばいいのか、肝が据わったように構えている時もある。でもやっぱり声を出す時は決心して、静かな覚悟が見え隠れする。
そうしたメディアで作られた人物像への違和感と、買い物へ行けば◯◯ちゃ〜んとアイドルのように見ず知らずの人が声をかけてもくることに最初は驚いていたが、人そのものを水俣病の代名詞とするシンボリックな使われ方への違和感を込めて、今回DMに使用する写真を選んだ。
だけど、必ずしもそれが間違いということではなく、私にもマスコミにも本人が思うこともあるだろうが、そうしてメディアがあったことで、広がり影響したことも事実だ。そして取材を通して本人にもモチベーションとなったこともあるだろう。だから一概に批判できることではないので、今の時点で自分が感じた違和感だ。
普段は静かで、気配り上手だ。たまに激怒したり、気分の上下もある。
恋多き…とも言われるが、確かにそうかもしれないが、普通に恋とも何か違う。
先に書いたように、私は患者、水俣病ということで、ましてやメディアが取材する人を自分が撮ろうと思ってこなかった。自分の仕事ではないと思っていた。
そしてこれからも、患者の一人の人だけを撮ろうとは、その人以外に思うことはないように思う。
何がきっかけになるか、どこで縁ができるか、わからないから、また何かのきっかけに思うことはあるのかもしれないが。
だけど、一緒に過ごしていてメディアの中と普段のギャップを感じ、いつも一緒にいるその時間を撮れないかと思うようになった。
実際に勤務しながら一度は取材する決心をして、本人やその周囲の人に許可をもらいに話に行った。
そして仕事をしながら、それ以外の時も一緒に過ごす時間を増やした。
そうは言っても二人で出かける時に、車椅子を押しながら、手伝いながら撮影をするというのは非常に難しかった。
私たちは、時折喧嘩をする。半年に1〜2回だろうか…
お互いが気使いの挙句、何も言えずに空気がだんまりし始める。
そして、最後に仲介人もいる中で、思うことを言い合う。
最初は気まずい空気が続いた。
だけどふと思った。
喧嘩までの過程や行動も、よく考えると私たちはよく似ている。
我が強いのに気が弱いところがある。気を使いすぎて、思うことがあっても言えない、言わないことも多い。
憶測であれこれ考え過ぎて勘繰って、勝手にネガティブにもっていき、怒る。
自分に重ねると思い当たることもあった。
だから、最近は、前もって「私たちは似たもの同士で、喋らないから喧嘩になるんだから、思ったこと話しましょ」と言って話すようになった。
そうすると、互いに話しやすかったし、相手から「ふふふっ」といきなり聞こえる笑い声に驚くこともあったが、その後に続く真直な悩みに考えさせられることが多かった。
その人と私のことだけではなく、誰でもそこまで一緒にいると気疲れすることも少なくないと思う。そのまま途中で撮影とは距離を取り、元の施設の仕事だけの付き合いになった。
それでもやっぱり頭の隅には続けたいという意志は残っていた。
今考えれば、喧嘩ができる相手というのは、家族と離れて以来久々で、その時は頭にきていても、思い出せば思ったことを話しぶつかれる嬉しい存在でもある。
昨年秋ごろから、やっぱり撮影を続けるならば、仕事を辞め、本腰を入れる必要を感じ始めていた。両方続けるには距離が近いこともあったし、混同してしまっては自分にとっても、そして一緒に働く従業員にも曖昧なことで何か影響が出てしまう気がしていたからだ。
人手が少なく自分が辞めたら利用できなくなる…と悩んでいた時に、ちょうど以前働いていた人が戻ってくるということもあり、今年1月に辞めることになった。
本人にも再度…と話すと、「中途半端はすかんたいね」という。
私も中途半端に患者の日常なんて言って浅く終わらせたくはない。
2月まで展示があったので、3月から取材を始めたいと伝えた。
それから、施設の利用時やリハビリなどについていき、写真を撮っている。
同時に、フリーランスと言っても、本当の意味でのフリー=自由人なので、収入になる宛もなければ、仕事になるかもわからない。
だけど個人事業主であることは自覚する必要があるし、仕事にならないなら自分で仕事を作ればいい。
何か展示や媒体で発表するということに対して努力は必要だというのは前提にしても、無理に仕事にしようとすると、必ず違う方向へ行く。世間はエンターテーメントを求めるものだから。
相手と話しながら一緒に進める必要がある。
それは今に限ったことではなく、黒岩の時からそう思っている。
ポートレートシリーズでは、長期で、ここまで入り込んで付き合うということとも違い、その部分でどういった形で進めるか、承諾書や許可がどこまで必要か、ケースや人によって考える必要がある。かと言って、全部が全部許可をと言っていたら何も書けないし、出せないというところが、今とても難しく思っている部分でもある。
話を戻して、仕事になるかわからないということは、期限がないということだ。期限は時に厄介だが、なければないでずっと曖昧にだらけてしまう。
それはもう嫌だが、やっぱり期限のない目的のないところへ同じ気力で向かっていくには相当な忍耐がいる。
だからまず1つ目の期限としても、グループ展へ参加することを考えた。
撮影の再開と同時に3月に主催していた知人に連絡を入れた。
これからメンバーも決まるということで、参加承諾をしてくれた。
6月末開催なので、正直個展を開催できるほどの量は撮影はどうだろうかと思った。作品制作費用もいつもながら辛いし、精神的にもまだその期間ではまとめられないと思った。撮影量も増やしすぎると相手に負荷がかかる。
程よい距離感で、程よく入り込みすぎないように、お互いに負担にならない距離感でいたい。
今の現状とこれまでの別の取材の進展期間を考えると、まずはグループ展として、展示できる量までは取材を進めたい、進めれると思った。
しかし理由はまたいつか書きたいが、基本的にグループ展はできるだけしたくない。
楽にとはいかないが、今進めていて、やっぱり今回は今までより少し慎重に一緒に納得しながら進める必要を感じている。
そして、現状の進展を残したく、簡単な冊子を作り、販売することまでが今回の進展目安だ。
そうしたことで、昨日は、話を聞きにいきたいと会う約束をした。
話を聞きたいと言いながら、何を聞こうかと朝も考えていた。
関連書籍などを再度軽く見流す。
でもふと思った。
情報として頭に入れる必要はあっても、そこに書かれていることは、この取材当時のことだ。今は違う。今のこと、今の視点と自分の視点も見つけなければ…と思い直した。それから本を閉じ、時間がくるまで少しの間、椅子の上で考え事をしながらぼーっと過ごした。
昼食を一緒に食べた。
ゆっくりしながら、話をする。
その人の口から、「今の現状をとってほしい」と言われた。私も今を撮りたいと思っている。
"今の"の指すものが何かと考える。
確かに過去の記事から今は変わったと思うことがあった。
それを掬い取ってみたい。
夕食も一緒にどうかという話になった。
夜のバイトも休みだったので、館長とその人と私と3人で一緒に行くことになった。
それまで少し時間が空いたので、ちょっとドライブに湯堂や湯の児へ車でぶらぶらしていた。
いつもは水俣の近場だが、珍しく出水の街へ行くことに。
向かったのは、あじさいという地元のファミリーレストランだ。
町の主道から少し入ったところにあり、初めて行ったが店内も広く、若い人から子供連れまで来ていた。
夕食を済ませ、私は自宅で降り、二人と別れた。
1ヶ月を切った。
自分の中での1回目の締め切りに向けて逆算しながら、今回は寝不足にはなっても鬱々しい日はないように進みたい。
そして、今月の食費は16700円弱。なかなかの出来だ。さらに6月は断酒月間です。
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