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アーカイブ活動を振り出しに戻って考え直してみた。

振り出しに戻って考え直してみた。
展示までもう時間もわずかでこんな時に…だが、どうしてもずっと気持ちが悪いままでいる。
一昨日、zoomでではあるが人前で話す機会をいただいた。
1時間半。。私にとっては大きな試練だ…。参加は少人数なのでそう力むことはないが、話すこと自体…しかも1時間半…は辛い。
でも単なる揺らぎよりもはるかに不穏な揺らぎは一度何かを止める必要があるような気がした。体調不良…というメールを半分打ったところで、全部消し、どんな機会であれ、その辛さを実感してでも、一度振り出しに戻って考えるには必要な気がして登壇の返信をした。
結果から言うと、前進はしないが、振り出しに戻って考えたことで自分がしたかったことを考え直せた。振り回されたようだが、自分の芯を自分が持ち動いていればとも思う。だけど今まで未経験分野は未だに迷いは消えない。

その機会では、自己紹介や普段の活動、直面したこと、水俣で来年から撮影を始める二人のことなど。ついでREBORNプロジェクトから今のアーカイブ活動など、総括だった。
以前のその機会で本来は東京で取材してその経過をプレゼンするはずだったが、コロナの影響で上京が難しくなり、取材が中断したことによって空きができ、REBORNプロジェクト現地展示の会場から中継や現地の人のアドバイスもあり写真の場所を巡ってみたりした。

その後、撮影者のお一人の息子さんとのやりとりが続き、自宅に昔のネガが眠っていると一度は見に行ったものの、どうすることもできず半年がたった。昨年度末、それまでも建物の取り壊しで街はみるみる内に人影だけでなく建物も、人がいた面影もない更地になっていたが、とうとう道の駅も嵩上げになり、元あった建物での営業を終えることになった。
これはやっぱりあの写真はどうにかできないものか…と再び家に上がったら最後、勢いで突進してしまった。何に取り憑かれているかわからないが、何の儲けにもなりそうにないことをまた…初めてしまった。それをSNSのストーリーにあげた。ある人から連絡と展示などの提案あり、これはありがたい、と話を受けた。今思えば、始まりも返事も勢いで、勢いは大事だが、もう少し先を考えて勢いをつければ良かったのかもしれない。
結果として、この判断はのちに負担となってしまった。

越して数年後水俣病資料館で資料整理の補助バイトを3年間した。初めての経験だったが、そこで触れる生々しい証言や聞き取り、裁判のメモ。当然だがその資料の中の大半の人は亡くなっている。今も戦っている人はいるが、同じ人間であるのでいつかはみな死んでいく。その時に、その人たちの声の代わりはこの資料なのだと思った。しかし一方で、その資料群の置かれた粗悪な環境に何とも言えなかった。さらに欧米では100年先に写真作品をどう残すか、当たり前に話すのだと人から聞いた。今でこそ、自分の意思で写真を編んでいる。だけど半世紀経ったら自分の写真も同じように意思はあるが、意思を持たないようにもなっており、半世紀後の自分の写真がこの人でもあるように思った。
そして記録性は写真の最大の特権だ。それは理解しているのだけど、私自身、写真は表現手段でもあり、言葉なき意思でもあり、国による言語の違いなど飛び越えれるビジュアルランゲージであると思っている。
写真ではあるが、対極のような捉え方をしているところがある。
だから他者の写真を”記録として残す”、ことがどういうことなのか、経験することで知っていきたかった。自分の写真をどう残すか、ある意味終活の一つかもしれない。

そして、アーカイブが難しいものでなく、地域で開かれたものにしたい。地域に還る活動をしたい。大学や博物館、図書館など公的施設は、何かと手続きが面倒であったり一般には難しい。それだと存在すら忘れられるように思った。
だからまずはもっと簡単に活動を知ったり、考える機会になれば、尚且つ地域へという以上地域との信頼関係が必須なので、興味がある人を募って、熊本と坂本現地でデジタル化作業をした。熊本では、資料整理の経験者たちが集い、相手はデータベースの情報を、こちらは写真に関する情報のトレードをするなどして効率的だった。
一方、坂本では気持ちで参加してくれた方多く本当に感謝の他ないが、なれない作業に思った以上に負担がかかり疲れさせてしまったように思えた。なので、"流さないソーメン流し"と題して、ただ昼食をする会を催した。
地元の人も参加し、小さな交流会になった。

ここでいくつか直面した問題も記したい。
当初、いただいた機会は活動を"大きく"するためにステップとして別の機会に繋がるよう…という話だった。"大きく"というのがどういう意味かはさておき、活動自体は至ってシンプルで労力以外、レンズと後少しあれば資金は要らなかった。だけどその労力に自分の時間を割く余裕がなかった。
大きくって活用の部分を?と思い、次は、地元で活動する人たちと話をしたり、類似活動を模索した。だけどなんかピンとこない。こんな大きさが果たして必要なんだろうか。しかも今の時点ではない。
模索するうちに、精神的な疲れが積もっていき、夏は一時鬱のようになっていた。
もう一度、こんな”大きさ”が必要だろうか。むしろ"大きく"するために大型の助成金を目指したわけだが、なんかそれ、違うだろ、とふと我に戻った。
助成金を取るために、何かを計画する気持ちの悪さを感じてしまった。それで獲ったとして、ああいうものには期間、期限があり、その中で収まるように計画し、資金も含め活動をしていかなくてはいけない。被災地でもある場所で、余所者のそんな身勝手さでアーカイブ活動を肯定したくなかった。
むしろ先が見えた時、必要とする金額に対する助成を受けたい。
日本の乏しい教育環境みたいだ。答えは常に正しく、そこまでの方法を教わる。でも私は思う。本当に大事なのは、答えが本当に正しいのか、むしろ正しさという概念ではなく、そこまでの思考の工程が重要なのであって、思考次第で答えは自分で定められる。その方法を議論であったり、試行錯誤することが必要だろう。だから今各所で哲学不足を嘆かれているのだと思う。
その後も結局展示ように小さな助成金を応募して2つ受けることはできた。こういうものは大抵、提出した額の半分前後が支給されるので当然足りないものだったが、別件腑に落とせないことあり、これ以上申請したくも力をかりたくもなく、足りないものは今回の勉強代として自分で負債は背負おうと思う。

他に直面したことは2つ。
それは「所有」と「共有」という問題。
簡単な言葉なのに難しい。

まず所有に関して、今回全くの他人であり故人のものを扱っている。
作業を進めているのは現状私でもあるので、所有というほどでなくても、自宅に置いてある。ただ難しいもので、人の欲というのは所有を手放せない。
最初は価値のなかったものでも、世間的に注目されたり価値が出てきた途端に、その欲は顔を出す。挙句、手柄を上げようと…などと陰口を叩かれてみたり、自分のものにしようとする底の見える言動はあとをたたず、自分の所有欲と私の所有欲を一緒にされるが、得などない。出る釘は打たれるものだが。
そうした時に、だから公共施設があり、地域の資産なら特に個人ではなく、公共施設で保存される必要がある。しかし現状、いち普通のアマチュアカメラマンであり、公共で保存される価値までは達していない。しかしそうした価値の高める活動に仕方をしていく必要を少し考えている。

次に、共有について。これもまた難しくやっかいだ。当初、地域に開かれたものでありたいと考えた。しかし、他者の写真を扱うことの認識の違いの難しさを感じた。そして類似企画などの区別も同じく。かといって私一人が持っていても意味はなく、地域へは還ってはいかない。エピソードが聞けるかもしれないからどうしてもと言われ一度データを渡したが、結局何のフィードバックがあったわけでもない。やり甲斐のない仕事になってしまう。
研究に生かされたり、何らか実地検証として必要になる場合は作業の労力は惜しまない。だけどいつ何時も対応をというのは今後負担にもなるし、何でもしていいとも思えない。
今現状、SNSも十分データベースではないが、共有する術であると思った。だが今後この部分をもう少し模索する必要がある。
共有を果たして、皆が使えることを共有とするのか、公開していく行為を共有とするのか。ケースではあるが、私がまず行うべきは後者のように思えた。地道な作業は後は一人でするしかない。作業とは言わず、そもそもの撮影もだが、結局は自分で歩いて道を作る他ない。私は1匹狼とも言われるが、何かを突き詰めるにはそれは当然のことだろう。そんなことをもっと若くして経験している友人に会えたことに今も感謝してる

活動を大きくしようとした中で考えたこととして、
・写真の古今を追う(前回した)
・学校で写真を教材に子供と何か取り組む
・福祉関連の利用
…etc
大抵どこでも似たようなことをしていたりしていて面白みはないし、私にとって、これらを現実的にしていくことが負担にしかならないことは目に見えていた。相手がということではなく、純粋に一緒に何かをしたいと思うこともなかった。元々一人で動いているのでそれは当然だろう。
写真の古今を追っても得たものは何もない。むしろ反応はいいが、写真がものとしてしか扱われず、試してはみたが、撮っていても、見ていても自虐的な空っぽさで虚しくなった。研究者には必要だろうが、私はここに意味を見出すことはできない。
学校という空間が苦手なので、学校教材などにして自分がするなど、精神崩壊する…でももっと砕けたイベントは楽しめるかも程度だ。
福祉関連も私の仕事ではない。
一旦振り出しに戻る。

一人の参加者が問いかけた。
「活動する動機の根源が、地域の人にノスタルジー(懐かしむ感覚)を与えたいのか、それともなくなる現状に抵抗しているのか?」
悩んだ結果、答えはどちらでもない。そして何に動かされているかは知らない。

数年前、私はどんな写真が強さを持っているのか、インパクトということではなく、相手に届くのは?と随分前悩んだ挙句思った。

他人事が"自分事"として捉えられた時。

黒岩での取材は、初めは驚き、知りたい、もっと、もっと…と好奇心で始まった。だけど知るうちに自分の経験や周囲と重なったことと、意地のようなもので…自分ごとのように必死になれた。
だけど正直、今ここでそこまで自分ごとのように捉えることはできない。
よそで災害が起きた時は、どうしても遠いどこかの他人事のように思えてしまう。遠くはないが、やっぱり自分ごととまでは捉えられない。
もう一歩振り出しに戻る。

私は、アーカイブが難しいものではなく、地域の人が触れ、懐かしむのも一つだし、現状に争うのも一つ、その地域の人たちが、それを選択するための『材料』の部分を作りたい。
そして、私は何ができるわけでもないが、触れる機会を作っていきたい。
その先の選択ができるように。
地域には面白い人がいる。時にそうした人たちの力を借りながら、その『材料』を活かす方法を考えたい。

私の仕事はもう一つ。地域だけで留まらないように。
アーカイブ活動というもの自体がどういう意味を持つのか、一人の視線を追いながら、全体を知りたいと思っている。

余談だが、東日本大震災が今もまだ終息には程遠い厳しい現状だ。だから半世紀前の、水俣が映画になったりキーワードとして目につくことが増えているが、水俣が水俣病最盛期の時、田中正造と足尾銅山を勉強したと何かの書物に持っていた。
だから今、水俣に目が集まるのは必然なのかもしれない。
そしてふと。
過去から学ぶというが、結局人は同じことを繰り返す愚かな生き物だ。
起きてからしか学べない。原発事故も、水俣も、坂本町も同様に常に行く末を悟り警笛を鳴らすものはいる。だけど、もう止まれない。
では、いつ大衆が学ぶのか。上の例だとともに半世紀後。実際にことが起きたあと、さらに最盛期の後、鎮静化するか修復する時だと私は考えた。

必要とされるかどうかもわからず写真の存在は消えていくかもしれない。
自分はもう存在しないいつかの未来に。
何かできることをしてみたいと思った。

(12/13追記)
ずっと考え事をしてる。
最後にもう一歩振り出しに戻る。
判断をする[材料]を作る。の"前に"。

本当に大事なのはその人の写真を残していく。
というシンプルなこと。材料などと人の都合で利用する前にその人個人を尊重すること。
事実はとてもシンプルだ。

でもそれも逆に少し危ういか…
死んだら突然尊重させ表彰されるアレによく似ている。

要は生人でも故人でも、"基本的人権の尊重"か!!

着いた!

あ、悩んでいる暇はない。もう2週間を切っている。。汗
一気に集中だ。


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