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"流す"技術 2024.7.18 thu

雨が明けた。ここ数日晴れ間が続くが気持ちも落ち着く。
4日前に書いたまま止まっていたのでアップする。

"流す"技術について。
今からの季節、流すのはもっぱら素麺だろう…
素麺に限らず水に流したい思い出も毎年更新されていくものだ。

そんなことはさておき、私ができずに苦戦してしまっていたのが「聞き"流す"」ことだったように思う。
今も"流す"訓練の真っ最中だ。

目も耳も常に空いたままなので、欲さなくとも情報は常に流れ込んでくるし、引き留めたくても垂れ流しになっている。

「聞き"流す"」
聞いたことを全部流せばいいわけではない。
そして、頭に引き留めたいことも流れて行ってしまう。
だけど、聞き流したいことに限って、流れていかない。
そんなものだけども、それに左右されるあたりは、まだまだ自分が未熟ということでもあるということだろうか。
でもチクチクと言われる小言は皆気になるものだと思う。

聞き流せなかった理由はきっといくつもあるが、最初に思い当たるのは、自分自身を信用していなかったこと。
みな悩みながら、手探りではありながら、自分の場合は我流すぎて、荒削りさは、不安になると迷路に迷い込む。
良し悪しなんてない、なんて言いながら、どれがいいのか、どれが自分の中の正解か探しているようだし、はたまた経験がないと判断の基準がない。だから悩んでしまう。

決めたらやってみる!と決めたら、進めばいい。
人から何かアドバイスを聞くにしても、そこで必要なことを聞き入れ、あとは流す。というのは普通みながしていることだと思うけども、悩みに悩んで迷路へ入ると、あっちではこう言った、でもこっちではこう言ってる、とあたふたと悩みの渦にもっと飲まれることになる。

見ている人は、自分の好き勝手言いたいように言っていく。
その中にも重要なことは隠れているけど、当然検討違いなこともある。見ている人はその人の背景があり、感じることはみな違う。逆に展示や何か表に出る機会は、そうしたやり取りが面白い。

ただ自分が正しいと言わんばかりに全て自分の意思を押し付けたり、単なる嫉妬とも取れるような嫌味の数々だ。
これこそ聞き流したがいいのに、流れない。
本当にくだらないと思うのに流れない。
ネットで拾い集めた情報と自身の偏った意見だけで、それらしいことを言うある種のオジサンには、若年層や女性という社会でも経験が浅かったり、属性だけで弱い立場になる人たちは何かしら、不甲斐ない思いをしているだろう。
付け加えると、オジサン、なんて世の中年男性全員を指すようでただただ失礼なのだが、単に中年のオジサン全員がここで指すオジサンではない。
ある意味で、思想のようなところあり、その思想の中年女性だったり、さらに高齢など多くいるのがその層というだけだ、若年から中年の切り替わり、オジサンへの入口にいる人は、自分も?と自覚し始めてるものの、いやでも自分は…とまだ受け入れられなかったり難しいようだ。
という自分も妙なマウントを取らないように…と思うところが私もその入り口にいるのかもしれない。初心を忘れずに、という言葉はその通りだろう。慣れは必要だけど、慣れすぎると緊張もなくなってしまう。程よく、緊張もしていたい。

私は20歳の時から必ず写真を最初に見てもらっている人がいる。
最初は、別の人に見てもらっていたものの、写真が見れる人だから、と一緒に見てもらうようになった。
その人は2〜3言、感想を言ってくれるがあとは表情を受け取るだけだ。
良いとか悪いとかではなく、おそらくただ見たことを言っている。
先日、写真とテキストを見てもらった時も、主語をどうしても入れた方が…と3箇所、名詞を入れてくれたが、それでもそれで良いかは自分で判断するようにと言われた。

数年前、マグナムの写真家に写真を見てもらった。
その人は、まず作品の意図を聞きながら、それと同時に写真を見て、セレクトしなおしたり、見せる順序を決めた。
彼は最後に言った。
「今日ここでのセレクトや見せ方を決めたけど、これはここでこうしたらいいとアドバイスしたものだから、帰ったら自分でもう一度考えなおして、やりなおしてほしい」
言葉は違ったかもしれないけれども、そう言ってワークショップを終えた。

その二人に限ったことではない。
ただ自分で問うて決めていく。
同時に私は、自身の意図で着色しようとする人に対して拒絶反応が出る。
だから二人が自分の意思で決めるように言ったのは、突き放すように捉えると言うより、それが当然のものづくりでもあるし、自分の"意思"、"意図"で決定していっていいということに安心もした。

もちろん、こうしたが、こういう方法も、という助言はとても参考になる。
だけど、全部を聞き入れるわけではなく、自分に必要な要素だと思えば取り入れたらいい。
批判は、物事も、作品も昇華させるには大事な要素だ。そこに経験や知識がなければ判断材料がない。学校で教わることが正しいと思い込んでしまうのが、落とし穴でもあると思う。私自身も、この判断をするための要素が少ないがために聞き流せなかったように思う。

写真が”見れる”という言い方は、少し横柄に感じるかもしれない。もう少しいい表現を見つけたいと思うものの、写真を見れる信頼できる人が一人でもいたらラッキーだ。
写真自体の捉えはそれぞれだし、では自分が正しいかと言うとそんなこともなく、今自分が考えていることも人や出来事に触れていくと変わっていく。そのくらい曖昧でもあると思う。                                                                                                                                                                   写っているものを単にみるのではなく、心情とでもいうべきか、その作者の意図を読み取れるとでも言おうか。

見るだけの人間はなんとでもいい、理屈は簡単に見えるので、失敗したり、自分や教科書と違うことをする人間を笑う。
さらに世間体に合わせようと修正という強制をし出す。

確かに未熟な部分はある。だけど、みな完全な人間なんているんだろうか。
それが失敗かどうか、修正したがいいかどうかは、本人が選択していくことだ。失敗したとしても、大半が失敗を恐れて行動もしない中で、行動して何が失敗の原因かを考え、次の行動に移すことができる。

失敗は儲けもんだ。

乱雑かもしれないが、独学はその積み重ねでしかない。

見ていれば容易いことも、行動に起こせば難しい。
でもやっぱり見ていれば容易く見えるから、自分にもできるはず…と妬みや嫉妬も生まれていく。

いつか嫉妬論を、論と言わないまでも少し触れてみたい。
嫉妬は実に厄介だ。いくつかのパターンがあると思っているのでもう少し整理したい。

そして他人を気にしていると言うことは、自分が何かを劣っていると思っていたり、動けていないもどかしさ、なども含むときもあると思う。
自分のするべきことを、きびしくも自覚したり、楽しんだり、集中しているときは大抵気にならない。そうしたところから来る攻撃も、"聞き流す"が肝心だ。相手にしていると、同じ穴の狢になる。

どんなに不格好でも、どんなに未完成でも、どんなに自分に足りないものがあると知っていても、まずは動いたらいい。
見ている人は、見ていてくれるし、もしも大きく道を逸れようとしたら、忠告する人が現れる。表情でも読めるけど、そうした人は自分が険しい道も歩いてきた分、横暴に強制しようとはしない。
大事なことに気づいたり、判断できるように、経験を積んだらいい。

窮屈さの中に、それぞれなんて言いながら、都合のいいそれぞれだけがそこにあり、写真ひとつとっても、それぞれの仕事と認識されることのない、ここの現状に窮屈さを感じていた。写真家、ドキュメンタリーという言葉での認識もとても窮屈に感じる。
どれを選択するかは、その人の考え方次第だ。
だからこそ、自分の考えを押しつけたり、強制するのではなく、まずその意図を聞く、知る、ことから。そして自分は何を選択していくかだ。

軽く考えすぎても何かが違うし、型にはまった神妙さを持っていても違う。
内と外や〜学の勉強とか、そんなことを考えるより、もう少し頭を砕いて動いたほうがいい。
今年に入って、ようやく不信や不調も解けてきて、殻を脱せつつある。
動き、あるのみ。


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