ある同級生のこと ② 2024.8.22thu

昨日の同級生に続き、写真を続けていると、もう一人、会えてよかったと思う同級生がいる。

昨日の話の彼も特に仲良しというわけではなかったが、今日の友人も同じグループだったわけでもなく、一緒に遊んでいたというわけでもない。
だけど写真を続けていると、あの時会っていてよかったと、静かに気持ちのどこかで支えられている。

その友人とは中学校が同じで、中3の時同じクラスだった。
1、2年の時もクラスは違ったが、共通の友人がいたり、元々男子校だった名残りで女子が少ないことから体育は学年女子合同だったので、何かと話したりする関係だった。

その友人は小学生の頃からスポーツをしていて、将来プロになるため日々練習を積み重ねていた。
中学の時から大きな大会でいい成績を残していたようで、よく全校集会で表彰を受けていたように記憶している。各所からも有能な選手と目をつけられ、私たちとは同年代のダルビッシュや宮里藍らがいた東北高校へ進学していた。

中学校生活でも、と言いながら私が知っていることはほとんどないのだけど、大会への遠征や大会前の練習は公欠で学校の授業よりも優先して熱心に取り組んでいた。

行きたくもない学校で、毎日が憂鬱で、どうせ中学は義教育だから行かなくてもそ卒業できる、あの箱の中で我慢したくない…とサボってばかりいた私とは正反対だった。

中3で同じクラスになった。
相変わらず、特別仲がいいわけでもなく、悪いわけでもなく、普通に会話をしたりはする関係だった。

サボった日に何をしていたか。
当時、音楽チャンネルのMTVやスペースシャワーTVをずっとみていたり、江津湖のあたりをぼーっとしなが自転車を漕いだり休んだり、今はゆめタウンだが当時でいうクリスタルモールという家から近いショッピングモールをうろうろしていた。
今思えば何でそんなに学校へ行けなかったのだろうと思うけども、時折学校のような施設や集まる場へ行くとやっぱり今も少し辛くなる。
共同体というものが体質上合わないのかもしれない。
そもそも、だから写真を撮り始めて、撮り続けていられるのだと思う。

ある日のことだった。
いつものようにモールへ寄った時のことだ。
ぶらぶらしていると、その友人が歩いていて、私ん気づいたようで手を振った。私もサボっている時に間が悪いなと思いながら無視するわけにもいかず手を振り返した。
そこで挨拶がてらに少し話していると、目の前の練習場での練習前なのだという。

もう随分時間が経ち記憶が定かではないのでとても曖昧な記憶だ。
何度かそんなふうに、そのショッピングモールで遭遇したように思う。
サボった時に限って。

ある時、次は昼過ぎにまた同じショッピングモールで遭遇し、練習まで時間が随分あるという。私もこれと言って用事なんてなかったから、二人でモールの中のマックに行こうという話になった。

ドリンクと軽食を注文して、私たちはずっとしゃべり続けた。
いつも教室でこんなに話したことのない二人が、クラスのことやあれこれと楽しく話している。
夕方まで数時間あったのに、あっという間に時間は過ぎた。

話の中で、その人は言った。

「試合に練習にて公欠で休みよるけど、実際休み過ぎて、学校に行った時に話題がわからんたいね。だけん公欠て言いながら今日も。本当はサボり。」

私は小学校の時隣町の小学校へ通っていたから、休日や週末に友達と遊んだ経験が少ない。休みの日に友達と遊ぶなんて、密かな憧れでもあったのだけど、週が明けて学校へ行くと、遊んだ友人同士はその時の話で盛り上がっている。だから週明けの疎外感が悲しかった記憶がある。

理由は違うけども、同じような質感の疎外感を感じているんだろうと、その時想像した。

そんなことを感じていたなんて思いもしなかった。

学校ではどちらかというとノリのいいグループにいて、楽しそうにしていた。

でも彼女はプロになるため、そんなそぶりも見せず、練習に試合にとどんどん進んでいき、プロ選手になった。

だけど思う。
写真は孤独だ。
写真に限ったことではない。
彼女もまた孤独の中にいた。
何かを極めようとした時、孤独になることは珍しくはない。
いろんな経験や他者から影響を受けたり、学びはあっても、
自分の中に向き合う他ないわけだ。

その沈黙に向き合う時間は楽しくはない。辛い方が多い。
そして、すぐに結果がでるわけではない。
その積み重ねは、なんとも地味で、結果になるかどうかもわからない不明瞭な霧の中を歩いていると時折、これでいいのかと迷いが生じることもある。
だから人の助けも乞いたくなるが、やっぱり自分の内に向き合う他はない。
そもそも結果なんて求めていたら、何もできない。
欲せず、求めず、積み重ねるだけだ。

もちろんギフテッドのように並外れた能力で本当の天才はいると思う。
だけど大半は天才なんていなくて、天才、才能なんて言われているスポーツ選手も大抵人以上に地道な努力の積み重ねだったりする。素質や元々備えているものもあると思うので、努力だけではどうしようもないこともある。
いかに積み重ねられるか、そして良し悪しを素直に自問し自覚することで精度が上がっていく。あえて天才というならば、それは努力の賜物のことなのだろう。

しかし、努力なんて言っても気張ってばかりいると疲れてしまう。
頑張りすぎるより、人は少し力の抜けた時のほうが、何かを発揮できるような気がする。
積んで何かを通り過ぎた先に、やっと力が抜けてくるのかもしれない。

写真のことを考えすぎると、この孤独であることが辛くなり、映画のようにチームでものづくりをする人たちが羨ましくなることがある。
でも群れているうちは何もできない。
そしてたとえチームであったとしても、その核に当たる人は孤独でもある。映画やドラマでもトップのチームになっていく時によく描かれているあれだ。

主将役は、全体を取りまとめていく必要がある。仲良しの友達同士で集まっていてもチームはまとまらないし、成長もしない。時に嫌われ役を受ける必要もあるし、輪の中で疎外感を感じることも当然あるだろう。
でも厳しさだけがいいわけではなく、みなが楽しく、充実しながら何かを得たり、成長できる、場であったり、機会であったり、何かしらいい循環をするように動いていく必要がある。
それは単にネガティブな意味での孤独ではなくて、必要な孤独でもある。
孤独になることがいいわけではなく、必要な選択、行動をしていくと、そうなっていくものだ。
理屈じゃなくて、順序を追うと、なぜそうなるかというのが必然的にわかってくる。

何事も、遠回りはあっても、近道はない。

急がば回れ、というやつだ。
急ぐ必要もない。ただ積んでいたら、それなりに時間も距離も必要になるだけだ。

たまに一人でコツコツ作業をし続けていると、写真が何かと考える。

でもそんな時に、私はマックであの友人と話した時のことを思い出す。
そして、それからの彼女の活躍を見ると嬉しくもあり、自分も頑張ろうと思う。

私たちはもう30代半ばだが、10代のうちから孤独の中でも積み続けた彼女の背中を同じ時代に見れて、出会えてよかったと、特に今、よく思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?