山の散歩と追憶 2024.8.8thu
昨日は水俣の山間部、久木野方面へ。
毎日、毎日、毎日、毎日、、、こうも暑いとくたびれる。
日差しが強くなってから道端を歩く人はいるんだろうか…
でも早すぎても…と9時過ぎに久木野へ到着した。
愛林館にバイクを止め、あたりを歩いてみることに。
以前、百間港で釣りをしていた人は学校の裏手に住んでいると聞いていたので、会えたなら写真を渡しに会いに行けたら…と思って写真を1枚持って自宅を出た。
この炎天下で歩いているひとはやっぱりほとんどいない。
久木野というと5月の棚田のあかり、夏は寒川水源で流し素麺だろうか。
愛林館の駐車場には列車が止まっている。
かつて、山野線という路線が、水俣駅から鹿児島の湧水町にある栗野駅まで続いていた。1988年に廃線になった。石牟礼さんの本にも列車での行商のことが書かれていたように記憶している。
私は黒岩を撮影している時、今もだが、行商人の影をずっと追っている。
追っていると言っても、当時行商人だった人たちは、もしご存命であっても100歳を超えているから会えることはなく、その子供たちでも80後半から90代に当たるのではないだろうか。
7年前、行商人について黒岩への行商をしていた田浦地区、別の山間部のことを知りたいと山野線方面の山間部を訪ね歩いていた。
ある人の紹介で、隣の鹿児島県伊佐市に住んでいた、行商をしていた女性にお会いした。
子供の頃は湯の鶴に生まれ育ち、小学校3年までは学校へ通ったが、その後はずっと行商の仕事を手伝っていた。
妹は学校へは行かずに親の手伝いをしていたのだという。
水俣病の症状があり、特措法の申請を出すのに、本人は小学3年生まで学校に在籍していたので、そこに住んでいた証明ができ申請することができたそうだ。妹は、戸籍がなく、学校に在籍もしていなかったから証明ができずに申請が難航した。
住んでいたことの証言があれば特措法の申請はできるということで、支援者の人が湯の鶴でその人やその家族のことを覚えている人を訪ねて歩いたそうだ。
黒岩でもそうだが、生まれた時に体が弱く、数日持つかわからない、という時には生まれて数日様子を見て役所に届け出を出したので、実際の生まれた日と、戸籍上の誕生日が違う、ということを数人に聞いて驚いていた。
そして、当初申請書の提出を勧めるも、ずっと断り続けていたが、粘って勧め続け、そのあとにわかったのは申請書類の内容、そして記入など読み書きが困難であったとことがわかり、理由に気づいたことでようやく申請をすることができたのだそうだ。
私はこの時、初めて識字率、ということを意識した。
私たち世代は、識字率は100%に近い。だけども、ほんの半世紀ほど前は子供が年季奉公へ行き、子供が子供を紐でおぶって面倒をみていた時代はそう昔のことではない。
私の好きな場所の一つだが、五家荘から五木に抜ける子別峠がある。
名前のまま江戸時代に7〜8歳の子供が奉公へ行くのに親がそこまで見送りに来た、という由来の峠がある。
有名な「五木の子守唄」も悲しい歌でもあり、もう少し深く触れてみたいと思うことがある。
ただこの時時、ふと思い出していた。
黒岩で、新聞や何か誌面で紹介される時、必ず地区の人にもみてもらっていた。自分が書いた原稿も、確認のため印刷をして簡単な説明をして渡したりもした。その時の反応に少し違和感があった。
簡単な説明をして渡すのだけど、「あなたが思うように書いたらよかとたい」なんて言って、読むというよりはサッと見て机や棚の上に置いていた。その後に会って話していても読んだ雰囲気はない。
ただ、この行商さんと出会った後、もしかして…と考え込んだ。
きっと同じようなことではないだろうか。
気づいた時、自分がしていたことが、どうしようもなく、申し訳がないような気がした。
その後から、原稿を確認するときは、時間をとってもらいゆっくりした時に音読するようにした。今も相手によってはこの方法をとっている。
このときは、田浦も久木野も行商さんを覚えている人はいるのだけど、直接繋がったり、何か写真などを見ることはできなかった。
数年後、学園大から出ている、特措法対象外地域の実態調査資料に行商さん→"めごいないさん"の写真と資料が掲載されており、参考にもなったことともう少し粘って聞き取りをすべきだったことを後悔もしている。
ここは黒岩の写真をまとめるにあたってはもう一度再開したい。
昨日は、少し歩きながら町をみたい、ということと、写真の人に会えたらということで周辺を歩いてみた。
小学校の裏手、とだけ聞いていたので、いつものように通りすがりの人に聞けば辿り着くだろうと楽観的にいたら、誰ともすれ違わない。。。
ようやく小学校の中に先生らしき人がいたので、訪ねてみた。
そうすると別の先生に訪ねてくれ、学校前の自治会長さんが詳しいからと一緒に訪ねてくださった。
そうしたら、あの家の…と登り上がった先の家を差し、教えてくれ、「今日は水光社行って、釣り行くて言ってさっき出ていかしたよ〜」と外出していることと、行き先まで教えてくれた。
少し微笑ましく思いながら、田舎では出かけ先、行動時間など驚くほど近所の人が知っている。
今の山間部は特に高齢の一人暮らしが多い。
「今日は顔ばみらんね〜いつもこん時間は…」
と、近所の人が家を覗きに行くこともしばしばあることをよく聞くが、地域で暮らすってこういうことだろう。
今では、久木野小も全校生徒が12〜3人だと言っていたが、地域が子供を育てる、というのも、優しくも時折厳しく、街の人が見守っている。
久木野は歩いてみると、あちかこちらから水の流れるせせらぎの音がする。
野田川から用水路も分かれ、集落を囲う水田に水を運ぶ。
今日は留守と聞いたが、散歩がてらに登ってみた。
ちょうど田んぼを見に来た帰りだというご夫婦に会い立ち話をしていたら、親戚の人だという。
また来ることを伝え、周辺を散歩して終えた。
まだ11時前、田んぼ仕事をしている人はいるが仕事の邪魔にもと思い、愛林館で早めのお昼にカレーを食べた。
ここのインドカレーは程よく辛くて美味しい。
冷凍でも買える。そして、ストックを切らしていた柚子胡椒を買い、後にした。
そのまま山へ入り、グネグネと、雨で流れ出た砂利や落ち葉が散らばった道をいけば、鹿の親子に遭遇した。
途中で鹿児島県に入るのだけど、峠を登り終え、降った先に布計地区がある。
ここも山野線の通り道で、かつては金山で栄えた町だ。
今ではその影もなく、廃屋と、いくつかの家、廃校がある。
ここの商店の人にも聞き取りをしていた。
山野線で運ばれてくる魚をここで下ろして、と、かつて駅があった場所に連れて行ってくれ、その時の様子を動作を交えて細かく教えてくれた。
ここは特措法対象地域外で、これだけ証言があるのに対し、未だ何の保証も受けられずに裁判を続けている。
聞き取りをしていたのが7年前で、特措法が新聞に載っていたのが12年ほど前なので、その月日を考えると言葉にならない。
特措法自体が解決策とされたが、本来の解決にはならない措置であり、それすらも受けることができないのが現状だ。
時代が違う。納品書や領収書は今はあって当然かもしれないが当時は違う。
それはその時代に生きていなくてもわかりそうだけど、政府は自分たちの都合のいいように言葉巧みに、不都合な条件を出し続けている。
7年前というと2017年。
この時、黒岩を取り始めて2年目のことだった。
自分の中で撮りたいものはもう見えている。でも胃の辺りまで来ているのに、そこで何をしようとしているかうまく言葉にできない。
自分でわかっているようなのに、靄がかかってどうしても見えない。
でもどうにか掴みたくて。そしてそれをどう表現したらいいか、自分では知り得ないように思えて、ドキュメンタリーのワークショップにいくつか参加していた。
中でも1年間、2ヶ月に1度大阪で受けたワークショップは、小原一真さんというチェルノブイリや福島。最近ではコロナ禍の看取り看護やハンセン病の取材をしている写真家が講師だった。
戦災孤児のテーマを扱ったSilent Historiesに感銘を受け、本1つであっても、付属した写真の折り目一つ、そうした小さな一つ一つに込められた想いなどを知り、ストーリーテリングを勉強したいと受けたワークショップだった。
2ヶ月に一度、バイトも詰め込んで遠征費を確保しながら合間に撮影もして、必死で動いても動いても一瞬で2ヶ月はすぎ、次の回に持っていけるものは微々たる進展しかなく、悔しかったが、一緒に参加していたメンバーも同じ思いで、終わった後にみんなで飲みながら写真のことばかり話していたあの時が、一番辛くて、でも一番楽しかった。その後も辛楽しい写真の機会というものに勉強になっている。
私は最後の1〜2回、内容がどうしても腑に落ちず、完成せずに終えた。
ものすごく葛藤があったものの、その2年後が最初の展示の機会だったが、この時の葛藤から得たことから言葉が多く紡がれていて、使用する写真もほとんどが2017年のものが多い。
土地の今を更新したいとして撮影に取り組んでいるが、私自身、黒岩での写真も内容を見直し、更新してまとめ上げたいと思っている。
なぜこの時のことを思い出したかというと、方向やかたちができ、あるところから燃え尽き症候群のようになり、動き続けていてもどこか空白が空いているような虚無感がずっとどこかにあった。
カラカラカラカラ〜と体の中から空回りする音が聞こえるようで、動いているのに動けていないようで、何より同じ気力や全てを注ぎ込めるかわからなくなっていた。疲れたんだろう。
それが最近どうにか戻ってきて動けているように思えている。
今度は燃え尽きないように。
少しずつ分散しながら続けられる方法で進んでみたい。
午後は自宅へ戻り、バイクの整備をした。
整備といっても簡単なオイル交換と伸びていたチェーンの調整。
節約したいがために、バイク屋での作業を見様見真似でするようになった。
自転車も中学生あたりから、自転車屋の真似をしながら大抵の整備はできるようになった。
数回、失敗したら体が覚える。
だからやっぱり失敗は儲けもんだ。
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