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"嫌い"はどこからやってくる?似たもの同士。

「なんで父が嫌いなのか?でも似とるとたいね。似とるけん嫌いとよ。」

酔っ払って自宅に帰ったある日、なぜか実家のリビングのテーブルの上に座って、なぜ父が嫌いなのか、仲が悪いのか、独り言をぶつぶつとTVに向かって喋っていた。友人と飲みに行った後、珍しく日が変わる前に帰ったらしい。家族がまだ起きていて、訳のわからないことを喋っている酔っ払いを、呆れながらも温かい笑みでこちらを見ていた母の姿はぼんやり覚えている。

これは「嫌い」の原因をとことん考えた悩ましき年頃の話。
なぜ私は父のことをこよなく嫌っているのか?
人を嫌う、のはそもそもなぜなのか?
「嫌う」は何者なんだ?

考えに考え、突き止めた結果辿りたいた先の答えは、私たちは似たもの同士、同族嫌悪ではないか。という話だった。
もちろんそれが全てに当てはまるわけでないことは然りだが、嫌いな箇所を考えてみると、ヒトのことはとやかく言えない気がした。
怒り方やタイミングも同じような気がする。
嫌いなのによく似ている。

何かの境に中学の途中くらいから父と不仲になった。年頃だろうか。
高校になるとさらに悪化して、バイトばかりの日々は、父が起きている時間に帰ることもなく好都合だった。

父は、毎晩欠かさず晩酌をした。小さな頃からだったが、この頃には少し量が増えていた。白岳の1.8Lパックが数日も持たない。
人と飲む場も好きな人だったので、時折、人を呼んでは我が家は宴会会場になった。
こういう場が好きなところ、なんか似ている…
母はそれに合わせて食事の準備をしたり大変そうだが、まあ好きにやってくれ、と姉や私は自分の食事を済ませるとさっさと自分の部屋に戻って行った。宴会は夜中まで続いて、そんな時の父は上機嫌で楽しそうだった。
しかし、一人で家で飲む時は、飲んですぐ寝ればいいが、時折不満が爆発した。その不満は母や私に向くこともあった。
父と私の喧嘩だけはほんの少し…激しくて殴り合いにもなる。
稀に父と母の喧嘩に巻き込まれることもあって、ある日のことだ。
それはそれはとても…本当にとてもくだらないことがきっかけに父と母が喧嘩をし始めた。
理由は、お茶の入ったペットボトルの蓋をガサツで大雑把な母が閉めない、という世にもくだらない喧嘩で、母が私を呼びつけ、父にこんなことで怒られたんだと訴えてきた。一瞬、この二人は何をしてるんだ…とあきれてしまったが、私vs父の喧嘩が口火を切った。
当初の喧嘩の趣旨から随分とずれ、お互いの個人の不満に引火し、挙句殴られて、私もか弱く泣き倒れて終わればいいものをやり返そうと抵抗した…そうしたら次は父に投げ飛ばされて、その拍子に止めに入ろうとした姉に私の振り回された足が直撃して、姉はノックダウン。母もあたふたしていた。
人は頭に血が昇ると、痛みを感じなくなるらしい。痛みも感じなくなるが、記憶も飛ぶらしい。

翌朝、私と父は全身の強烈な筋肉痛に襲われていた。父の顔にはアニメで見るような、絵に描いたような、目の周りに青あざができていた。
そして喧嘩の原因を作った、とうの母はというと…
近所のおしゃべり友達が来て事務所の中で昨日の話をもちだした。

「この二人ね、昨日喧嘩したとよ…酷かった〜」
とくすくす笑ながら話している。
父は黙って配達前の書類を整理していて、私は何をしてたんだろう、別の机にいたが、横でそんな会話を耳にして、空いた口が塞がらない。
酷かったというより、あなたの"ペットボトルの蓋"がこの大喧嘩の原因だ!ということをちっともわかっていない。というより、そんなことはすっかり忘れていたようだった。

こんな喧嘩ばかりではないが、TVで見るようなお決まりの"誰がお前を養ってると思うんだ"と度々言われては、何より家父長制を許しがたい私は、生意気さも問題かもしれないが、この言葉を吐く父を人だと思っていなかった。
食費や学費などの生活費は子を養う親の仕事だと思っていたが、それ以外のことは何を言われても自分で選びたい。と、高校時代はバイトばかりしてた。何より学校も自分の居場所だと思えなかったから、働くということに充実感を感じていた。そしてバイト仲間と遊ぶ方が楽しかった。バイクも母は危ないと乗ることを反対したが、母の反対に負けて進んだ学校ですごす時間はただの苦痛でしかなかったので、次はもう絶対に従うまい…と意地になった。反対された上、資金を親に…というのでは筋が通らない。だから高校時代は、免許取得費やバイクも2台、洋服や一人旅も、自己負担、自己責任だと思って通した。”親の気持ち、子知らず”でもあり、今考えればむしろ感謝することの方が多い。そして、もう少し勉強しておけばよかったが、それは今写真を撮るようになってやっと思えるようになったことだ。

そんな時間の中で、私が専門学校に通っている途中で我が家は倒産した。
我が家は、自営業の魚屋で、県南のスーパーや飲食店に卸していた。
小さな個人の卸会社が値段でも量でも、大きな会社に適うはずもない。時代でもあったし、随分前からわかっていたことだった。
父は、一家をどうにか養わないという思いから、最初に大型一種と普通二種の免許を取り、長距離トラックに乗り始めた。
私も一度だけ、関西までの仕事について行った。小さな頃からトラックの助手席は私のお気に入りの場所だ。
初日は、10tトラックいっぱいのジャガイモを長崎で積み込み、帰りは、大阪で液晶TVを載せて帰った。大型トラックの座席の後ろは人が一人、寝れるくらいの仮眠スペースがある。そこに昔母が作ったキャンプ用の簡易布団を敷き、私はそこを占領し、父は運転席で座席を倒し、ハンドルに足を上げて眠った。父は運転しながら途中で睡魔に襲われるといきなり身震いするような素振りで必死で目的地を目指して運転していた。
大阪に到着しやっと夜睡眠が取れる。夜休むために大型トラックが集まってくる場所があり、私たちもそこで休むことにした。倉庫が立ち並ぶ場所で、夜は人通りもなく一帯の道路脇は同じ長距離トラックたちの寝床になる。この旅で初めて、本州の高速サービスエリアや大型トラック向けのガソリンスタンドにはシャワールームやお風呂が設置されていることも知った。
熊本を出て最初は母の手製弁当、そこからトラックターミナルというトラック野郎の集まる食堂で食事をした。大阪の宿泊先では、近くにコンビニくらいしかなかったので、コンビニで弁当と私は梅酒、父はビールを買った。トラックに戻り、運転席と助手席の間のテーブルのようなスペースに買ってきた弁当とお酒とつまみを広げる。
これが私と父の、最初で最後の"サシ呑み"だ。
「お前とこんなやって飲むのもなんか嬉しいな」
そう言って、私も父もニヤけながら、何を話したか覚えてないが、夜は更け各自の寝床にもどった。

元々、小学校に上がる前から父の配達のお供は私の楽しみだった。
月末の忙しい時期は断られるが、それ以外は連れて行ってくれた。
小学校の前半は、黄色の長靴を買ってもらい、父の真似をして長靴にラバー軍手をつけて後をついて行き手伝ったものだ。
昼は二人で卸先の近くの公園で花見をしながら弁当を食べたり、港に車を止め車の中で船を眺めながら弁当を食べた。
父は高校中退で中卒だ。中退後、三角西港にあった三角九州海技学院に入り、そのまま船乗りになったらしい。だから港に行って船を眺めることがよくあったし、我が家も船を持っていたこともあり、八代の大島の船着場から御所浦付近へよく釣りに行ったり、海水浴へもいった。最期までまた船に乗りたいと言うのは口癖で、船乗り時代のアルバム3冊を大事にしていた。船の中には暗室をつくり、写真を撮るのが好きだったそうだ。きっとその時に撮った写真だったんだろう。私がまだ幼い頃、自宅の屋根裏にあった海外の風景写真をこっそり眺めるのが楽しみだった。ある時は、友人とバイクの二人乗りで島を旅し、洞窟で寝泊まりもしたそうだ。そんな話をいつも聞きながら、自分もいつか大きくなったらこうしていろんな場所に行ってみたいといつも思っていた。
仕事が暇な日は釣竿を持って行き、帰りに日奈久や三角あたりで夜釣りをしたり、配達先近くの小川でハエを釣った。さらに暇な時は、遠回りをして帰ろうと、宮原から山へ入り、五家荘を経由して探検をした。冷静に考えても笑えるが倒産するはずだ…
休日も、隣町の学校へ通っていた私の遊び相手はもっぱら父だった。ひたすら車でぶらぶら山の中を走り、面白そうなものを見つければ二人で覗いてみたり、探検が始まる。
好奇心の強さやじっとできずにすぐに動く、いい意味での行動力、悪い意味での落ち着きのなさも父譲りだろう。似ているというより、似ていくものかもしれない。

"父譲り"
ここまで振り返って、どちらかというと仲のいい方に入るだろう私たちはどうして、こうも今は嫌い合うのか。

大型トラックはヘルニアで長続きはせず、最後はタクシーに乗った。
誰よりも…と朝から晩まで走り続けて、売り上げも車内で上位にいったそうだ。しかしこの時には、また喧嘩が増え、2年近く、喧嘩以外に話すことはなくなった。
そんなある日、父は病院へ行くと言い出した。なんか悪い予感がした。
病院嫌いでほとんど病院へ行ったのをみたことがない。でも最近、どうも様子がおかしかった。
私は冗談で、「末期がんとか言われたりしてね」と母に言うと、「冗談やめて!」と真顔で返された。
だけど悪い予感も、冗談も、的中してしまった。
父が病院へ行った後、家族も病院へ来るようにと言われた。そこで胃がんのステージ4で余命は半年だということがわかった。家族は落胆し、家に帰っても、それぞれがそれぞれの場所で泣いていた。

私はこの数年、ろくに口も効かなかったことを後悔しながらこれまでを思い出していた。これだけ仲が悪いが、私たちはいつも一緒で、私が一人旅に出かけたり、バイクに乗ったり、写真を撮ったり、何か始めたきっかけはいつも父だった。
時間はどうあがいても戻らない。
だけど父が運転する車の助手席で聞かせてくれた話に、いつか自分もと憧れていた先が今の自分だ。
取り返しはできない、だけどもう一度自分を振り返る意味でも、以前と同じように過ごしてみたいと残りの時間は、今度は私が運転席で、父を助手席にのせて出かけるようになった。

最近まで、1年半ほどしていた仕事がある。
初めての職種だったり、普通とは少し違う部分もあり慣れないことも多かった。だけど、経験できてよかった仕事だ。
その中である人とたまに喧嘩をした。家族以外で喧嘩をするなんてまずないことだ。
でも喧嘩をしてお互いに思うことをはっきりと言い合うと、やっぱり私たちはよく似ていた。
似たもの同士、勘繰って言えばなんでもないことに妙に気遣って黙る。だから違った方向へ行き衝突する。
最後はいつも「私たちは似てるんだから…」と言って、互いにくすくすと笑い出し、たわいもない日常でのお悩み相談へ話は変わっていく。
衝突した直後は確かに頭に来ることはたくさんあるが、ここまで他人に正面からぶつかることもない。
久しぶりにこんな感覚を思い出し、少しうれしくもあった。

今の時代、当たり障りのないところで、いかに冷静に対応するかでスマートさを装う。確かにスマートなのかもしれない。本音でぶつかり合うことは野暮で、指摘することは無礼、配慮に欠けるとされることもあるだろう。
だが、触らぬ神に祟りなしとすることも、また自身にとって都合のいい解釈も、間違ったことを指摘せず、されずにやり過ごすことも本当の気遣いなんだろうか。
そうした疑問が多い中で、衝突できる、喧嘩できる仲がどれだけ恵まれたことで、幸福なのかを教えてくれた。

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