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無知は罪?無知は恐怖?ーわからないは悪くも怖くもない。

考え事をしていたら眠れなくなってしまいました。
今年は何か吹っ切れたように、これまでが何だったのかというほど動けているように思います。

私は、知識人、というより感覚人間なので、物事を言語化するのに時間がかかります。言語化もですし、写真を使っての表現も、空気のような輪郭のない違和感を感じ、それを具現化していこうとしているので、いつもわからないものを追っているような気がします。
逆にわからないものを探し続けることが原動力です。
世の中は、わからないことに溢れています。
でもわからないから考え続けていたら、最初に少し気づいたような違和感がもっとさらに"わからない"の沼にはまってしまうことは珍しくはありません。
私はその沼で、時折沈みながら、だけどもがいてみて這い出したと思ったら、また別の沼にはまっていく。案外その"わからない"の沼地は私の遊び場です。

「無知」ということが何者か時折考えます。
辞書では、(知らないこと。知識がないこと。知恵のないこと。また、そのさま。)とあります。もう少しよく聞こえる言葉はなかったのかとも思いますが、知らないことを恥、とする世の中もあるかもしれません。知らないことを馬鹿にされた経験は、友達と遊んでいる時、学校で、会社の上司など、みな一度は経験しているのではないでしょうか?
または馬鹿にされないように、意地になって知識を蓄えてみたり、意地を張って知ったかぶりや嘘を言ってみたり、そんな経験も少なからずあるように思います。

だけど私は思います。
"知らない"、"わからない"という「無知」を自覚すること。
自覚という言葉をよく使うのですが、例えば愚痴をこぼしていても大抵自分もあまりかわりません。人に愚痴をこぼすより、自分を見返して振る舞いを変える方が、いい振る舞い、動作や言動が周囲に連鎖していきます。
結果、自分に返ってきます。返ってきたらまた出かけて行って帰ってきます。学びました。
そして、無知を素直に自覚し、素直に学ぶ。そうすることで相手への敬意も当然培われ、何より頑固に意地を張って知ったかぶりをするより、別の方法、または触れたことのない新しい知識に触れ、その方が自分にとっても財産になります。たまに、知らないことで、素朴な疑問をすると本題とはズレた質問になるかも知れません。気にしないで聞いてみましょう。私は気にして、というより人が周囲にいると、的を外れてたらどうしようかと不安、緊張から聞けない思いをいっぱいしているように思います。
でも、聞いた方が徳をします。

そして、もう一つ。
頭で考えるている時はうまくことが運べる想像が膨らんでいきますが、実際に動いてみると思うようにいかない、思ったことの半分も進まない、なんて経験をした人も少なくはないのではないでしょうか?

考えたことを実践すると、自分にできること、できないことがわかります。
そして、改善できることもわかります。
でもやっぱりもう一度くらい失敗します。
そうしたら、次の実践では、できること、できないこと、改善できそうなこと、の分量や要領がわかります。
もう一度くらい失敗するでしょう。
そうすると、最初に目指そうとしていたものが目指す場所なのか、それは自分に適しているのか、振り出しに戻ります。
ちょっと半歩下がったように思えますが、いい問いだと思います。
じゃあもう一回くらい失敗してみましょう。最後にしたいですね。
考えて、実践して、失敗して、ゴールを考え直してみて、形になりました。
でもゴールが何かわからなくなって、またスタートを切りました。

そんな繰り返しです。

私は、ドキュメンタリー写真を撮っています。
社会に対して、もっと狭い範囲の地域のコミュニティや個人単位でも、疑問、違和感、憤りを感じることは、知っていく中で度々出会っていきます。

「知っていればそんなことわかるだろう」「考たらわかるだろう」
と思うと、無知は罪のように思います。思っていました。
いや今も少し思っているかもしれません。
でもそういう自分もやっぱり知らないことばかりで、そのことについては"知った"からそう言えるだけで、話題が変わるとやっぱり知らないことが多いです。
社会問題、公害、差別、なんて言っても対象になる問題の地域やことが違えば、共通することもあるとは思いますが、知らない、わからないが溢れてきます。
ここで一つ思います。
先に書いておきますが、立場によって違うことは然りです。

知らないことは本当に罪ですか?

問題の渦中に触れると、最初のような「知っていれば…」「考えたら…」と思うのですが、人が一人知ること、触れること、生活範囲はものすごく限られています。その中で、罪と言われてしまうと生きてきたことが罪と言われているような気がしました。
でもやっぱり、知っていたがいいことはたくさんあります。

であればまずは知ることだと思います。
または知っていけばいいことだと思います。

どうしても自身が経験していなかったり、身近ではないことを考えるって、わかりずかく、難しいと思います。
私も自分ごとのように考えれたから、わからなさを追い続けていますが、他人事のように思っていた時は、わからない、という感情すらありませんでした。むしろ、文字を読み、分かったような錯覚を抱いていたように思います。

私は足で、体で知ることが大事だと思っているので、その方法をお勧めしたいですが、皆がこの場所を歩いて回れるわけではなりません。だからまずは知る、こんなこと言ってたな〜、書いてあったな〜、程度でもいいと思います。そしたら、案外身近な別の事柄でふと繋がることがあります。
私自身、幼少〜学生時代の体験が今、こういうことだったのか、と紐づくことが多く、多様な角度での経験がインターセクション(交差性)を持ってさらに広がる瞬間という経験が多いので、その時はなんとなく聞いていても無駄なこともないもんだと思いました。

もう一つ違和感を感じたことがあります。
それは、知らないことの恐怖心。

恐怖心といえばいいのか、恐怖心に似たような、または含むような"疑念"や"疑心"というでしょうか。

地方のある一部での移動とはいえ、中心部と周辺地域の人と人との距離感の違いがあり、少し近くなると起こりやすい、言われのない、ネットより早い噂話、というものに慣れれずにいました。
ある時その根本が何かを考え続けていました。
噂話には本当のことも含まれると思いますが、その一部に見当違いな憶測が含まれることが少なくないように感じました。憶測が噂でじわりじわりと広がり、別の憶測へ移り出す。SNSで作られる人格を、実際の人格とみなすことも似ているように思います。だからやっぱり実際に足で知ることです。
対話をしてみるのもお勧めです。建前の対話ではなく、本音の。
でも本音のと言っても、親しくない間柄では難しいでしょうから、ぶつかるわけではなく、難しく考えるでもなく、ただ思ったことをまず話してみる、そのキャッチボールをするだけで、知らなかっただけで判断してた、避けてた、何かしら抱いていたものが解け出すかもしれません。

逆に知っていればなんでもなかったことで、無知が故に恐怖体験してしまったということも、失敗することもあります。無知は恐怖ではないとは言い切れません。

でもこの無知からくる恐怖は、時に偏見に繋がり、そこから差別へも繋がります。差別の根源でもあります。

だから話してみる、よりも先にできそうなことは、まずは知ってみる。ことだと思います。

私は自分の経験から、直接的に問題触れることに躊躇があっても、日常の普遍性からアプローチすることでその接点ができないものかと試行錯誤してきました。そして実際流れる時間は、その事件だけが続くのではなくて平坦な時間の中で津波のように、漣のように、あらゆる形を変えて波が訪れます。
しかしその結果、本来マイノリティが生きづらい世の中を作っているマジョリティが、マジョリティ性を自覚することは居心地が悪いことだから、自分と関係のない問題として脱色して気持ちよく、または無意識にみると「政治性の脱色」という現象が起こるそうです。
この一文を書いていた本を読んだ時、大きくうなづきました。
筆者と同じく、ふんわり包みすぎたからか、私もこれだけが原因とは考えられませんが、田舎の良き暮らしとしてだけ捉えられ、水俣病の現状、山でのことを話すと「いや、そういうつもりは…」と返ってくる反応への違和感と同質のもののように感じました。

何かしらの社会的マイノリティとして生活の中の見えない、小さな、不確かな痛みを知っていたり、実際に歩いたり、暮らしている人との反応とは違った難しさを感じました。
その時、内側と外側の視点の違いを認識しました。
でも。本当に痛む場所、失くすものって、TVで見るようなわかりやすいものではなくて、言葉で説明できるものでもなくて、たとえ物質として存在したとしても、そのくらい見えづらくて、不確かなものだと思います。

「無知」が何かを考えました。
無知は罪ではありません。
無知は恐怖でもありません。
だから無知でいいわけではなく、知ることで小さな変化があるかもしれません。
哲学者や思想家なんて、難しい話をしなくても、みんな何かしら考えています。その延長に、知ることをまたちょっと視点を変えて増やしてみるのもいいと思います。
時折、知りたいことを知るには、外に出ていく必要があるかもしれません。
私は写真のことに関しては、どうしてもここにいるだけでは難しかったので、自分の学びたいことが見つかると機会を求めて、そして今も実際のものに触れるため出ていく自己投資のような機会は作るようにしています。
知ることは、生活や暮らしに、そしてそれは社会と繋がります。
そして社会の中の自分に返ってきます。
その時に判断できる材料を増やしてみる。
今までで体験したような、そんな小さな接点の場があれば、またはいつか作れたらいいなと思っています。

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