見出し画像

ネット遍歴ー落とし穴と遠回りは近道 2024.7.23 tue

すっかり真夏になった。
ジリジリという表現がよく似合うほど、今年も暑いという言葉だけではおさまらない暑さが続く。

今から10年間、20年前、30年前なんて10年前までは考えたことがなかったが、今20年前はもうすでに16歳だ。
こんなことをふと考えだすと年齢とはなんだろうか、老いていく、とはどういうことかと悩み出す。
話を戻すと約20年前、中学に上がって初めて持った携帯は、最初にiモードが付いた当時では画期的な最新の携帯だった。今でいうガラケーの最初の機種だ。それでも今から比べれば、緑のモノクロで、メールができたり、今のネット検索とは比較にならない文字情報での検索ができるようになった携帯だ。

中学校2年か3年の時、携帯の画面がカラーになった。
と言っても今のTVや動画のような画面ではなくて、一応色がついて、待ち受けに好きな芸能人や風景などのカラー写真が使えるようになったり、カメラ機能がついた。携帯電話自体も今とは比較にならないカクカクの荒い画像で、ちょっと機種がら古くなれば一円から買えた。知人がdocomoにいたこともあり、最初の携帯も、機種を変えたい時も、すぐに交換していたように思う。
高校まで、今のガラケーはなんとなく微妙な進化をとげながら、その進歩を体感するのが楽しかった。

学生の頃はチェーンメールが流行りだし、受け取ったらまた誰かに送ると画像がもらえたり、なんたり…今思えばなぜそれが楽しかったのかがわからないけども楽しかった。

学生を卒業して20歳を過ぎた頃だろうか。
今のスマホの先駆けのようなウィンドウズのタッチパネル式の携帯を初めて持った。これが恐ろしく使いづらかった。
結局早く変えたかったので常に辛抱だったのだけど、その次にようやくiPhoneに変えた。

iPhoneの使いやすさに驚いた。
今と大きく変わったところはないが、メニューからいちいち探すこともなく、目的に合ったアプリを使えばサクッと早い。カメラ機能もこれまでと比べれば雲泥の綺麗さで、ネットもpcとほぼ同じような環境でできる。
こんなにいいものはないと思った。

と、携帯遍歴を辿ってみる。

PCはというと、中学校時代に自宅にPCはまだなかった。
でもどうしてもみたいライブの配信がネットじゃないとみれない、なんていう時代が到来した。
でもPCは持ってない…でもみたい。。
と悩んだ挙句、初めてインターネットカフェという場所へ行った。
今もツタヤはそのままあると思うが、田井島交差点のツタヤの横に、今は紳士服の青山だったか、それと百均が入っている建物にインターネットカフェがあった。

ネカフェ自体も出来始めた頃で、最初は母についてきてもらい会員登録をした。その後、ネットが使え、飲み物もフリーでその快適さに味を占めてしまい、中学の終わりから高校の最初の時期はよく利用するようになっていた。
学校をよくサボっていたから好都合な場所だった。

高校にあがり、ようやく我が家にもPCがきた。
ネットも繋がったのが嬉しかったが、何を検索していたのか、全く思い出せない。だけど、高1の秋にバイクに乗るようになり、今のようなナビ機能はなかったし、途中でできてもまだまだ曖昧なものだったから、行き先も先に調べてプリントアウトして、または地図に印をつけて出かけていた。
今携帯で一番使うのはカメラ機能の次にナビ機能だ。
性能が上がり、ルート案内はバスや電車の時間も考慮した最短時間を提示してくれ、道案内も以前より正確になった。
地図を買って、ワクワクしながら距離を測ってみたり、どの道を通るか決めていた頃が懐かしい。地図上では近道に見えて選んだ道が、えらく山の中をぐるぐると回る道へ入り込んでしまい、結局距離よりも大きなバイパスを使ったら無難だった…なんてことも少なくなかった。

よく道に迷った。だけど道に迷うのも楽しかった。
今は地図を片手に見ながら進まないと不安になる。景色も見えず、機械が決めた道を進む。便利ではあってもつまらない。
少しくらい道に迷いながら進むくらいがちょうどいい。

専門学校へ入学する時、いよいよ自分のノートPCを買った。
高校の時にバイトで貯めたお金で10万円のFUJITSUのPCだった。
今ではCCになり、入れていることが当たり前になったが、フォトショップの安価なエレメンツのソフトを入れたり、無料写真ソフトのGIMPを入れてみたりした。でも結局そういうソフトは不慣れもあり使いづらい。、 今は使い方は調べれば大抵誰かが動画やハウツーページを作ってくれているけど、まだ調べてもほとんど出てこなかった。だから、ワードを駆使して、卒業イベントのDMを作った気がする。

それから次に買ったのがmac bookだ。これもiPhoneと同様で使いやすさに驚いた…スマホと同じ要領で使える。macはこういうところが憎くも、使うと他の機種に離れられないというところがある。Appleはそれを知っていて、ユーザーには少し厳しく値段が釣り上がっていっている。

SNSは、高校時代にmixiから始めてみた。
姉が使っていて始めてみたが、友達と繋がったり、知らない誰かと共通のカメラやバイク、他の趣味で繋がることに面白みを覚えていった。
その次にFB、Twitter、インスタと初めていったが、今は面白いかというとわからないし、時々知らない誰でもが覗いて、自分も知らない自分が出来上がっていたり、それだけで判断されることに怖さを感じてもいる。

でも地方では見れない、知れない、触れれない、ことがどんなことでも少なくない。
だから何か目指すなら東京へ。となる。
今も写真のことだけをとっても同じで、取り巻く環境は全く違い、触れれるものが違えばできるものも、質の高さも違う。
地方コンプレックスには、ネットで情報が得られるということは私にとってはそれはとても大きなことだった。
その中でも特に気になる展示や機会があればその時に出向いていけばいい。実物は触れるに限る。
何事もものは考えようとはいかないかも知れないが、田舎の片隅にいることが欠点ではなく強みにかえていくために情報を得られるということは何よりありがたかった。
SNSも同じように、楽しむ趣味か、仕事か触れ方はそれぞれだが、同じように写真という共通の話題が話せ、どんな活動をしているか、互いに報告し合う環境は、写真仲間なんて周囲にいない中では楽しかったし、それだけでも刺激になった。

今もその延長のようなところあり、世間一般的に写真人口は多いのだけど、熱心に活動しているのとは少し違う。そうすると業界はとても狭いもので、その大半はやっぱりほとんどが東京に集中する。

私は自分が展示をするのは実のところとても苦手だ。
割と積極的にしているように思われるので、表に出るのが好きなのだと思われるが、場を作っていかないと何も始まらないので多少積極的ではあるが、好きかというとそうでもない。
展示の1ヶ月前は恐ろしく気が病んでしまうし、始まっても不安定さはあまり変わらない。
だから最初の個展から、次開催するまでに7年ほど時間が空いているし、最初は決められた期間で、出費が大きい割に手応えを感じることも少なかった。こうした部分も東京のギャラリー文化との違いは大きく、どこでするとどんな人が見にきて、どう繋がっていくか、その違いがやっとわかってきた気がする。
苦手なんて言っても、赤字になってでもするからにはあとに繋がるように…と思うと、宣伝も苦手だが割としっかりする。手当たり次第にすればいいわけでもなく、やっぱりどんな人に見て欲しいか、想像しながらそんな人が集まりそうなところにいく。そうした場所は大抵自分も好きなところばかりだし、何より出会ったよかったと心から思える場所が多い。

SNSでの宣伝の影響は小さくてもそれを見て気にかけてみにきてくれる人がいる。プレスリリースをいろんな会社へ送っても、拾ってくれるところはあるが、無名で個人単位の小さな展示は切られることもある。そんな中で自分でできるささやかな広報でもある。
少し昔までは、個人のHPといってもHTMLの知識がないと見栄えのするサイトも作れなかったが、今では知識がなくてもヴィジュアル的にサイトを作れるようになったり進化してきた。何より、名刺と同じように自分のウェブサイトを持っていることが必須になった。

しかし、便利ではあるけども過信するのは落とし穴に落ちる。
ネットに限ったことではない。実際でもものは言いようでもあって、口の立つ人間が割りがいいのは現実かもしれない。
言葉のカモフラージュがあれば、ネットという限られた仮想空間で視覚や言語でのカモフラージュは案外容易い。人は最初に飛び込む視覚(ビジュアル)要素がその後の判断に影響することは少なくないだろう。

確かに便利ではある。
情報が溢れる現代で、知らないことは調べたらどれだけでも情報を知れる。
そこには当然嘘も含まれるが、わからないことはスマホで調べればいい。
ここにも落とし穴があるように思う。
このすぐにスマホで調べる、動作は便利ではあるが考えることをしなくなった。指を動かせば情報が入る。その情報は、それぞれの経験に基づき、大体このようなものだろうと検討をつけ判断してしまったり、分かった気になってしまい、実際の経験や実物を前にして何かを思う、考えることがなくなった。

そして、わからないことは見ればいい、というのは覚える必要もなくなったということだ。
最近なぜこんなに記憶力がなくなっただろうかと悩んでいた。
単に老化、ということもあるがそれにしても覚えられない。
でもこれも見れば出てくるものだから、わからなければ見ればいい。前のように必死に覚えておく必要も無くなった。
こうして脳は衰えていっている。

確かに広報を個人単位で拡散できる便利さがある。やっぱりここにも落とし穴があるように思う。
ネットですごい綺麗な景色の写真が載っていて、楽しみに行ったけど実際は全くちがった。なんてことはTVでも自分の周りでもすくなくない。
現実はそんなにノスタルジックでもキラキラ光っているわけでもないので当然だ。
画像だけではなく文字も同じだ。
すっごく面白く書いてあったが、実際行ったり会ったりしてみたら、なんか違った。なんてこともある。

確かにネット情報は影響がある。だけどもその影響力も過信してはいけない。

場は体験するに限るし、人は会って文字だけではなく、話し方、佇まい、実際に言葉を交わす、聞く機会で判断したがいい。

SNSの反応の数は、いい仕事をする人が必ず数が多いとは限らないし、数が多くても数だけで実際が伴っていないこともある。
数欲しさに自分を偽ることも、その欲や嘘に飲まれることも容易い。だけど実際の積み上げてきた活動や実績があるからそれに伴って増えている人もいる。

数は数でしかない。

つまらないことに左右されていないで、着飾る術ばかりを巧みに使っていないで、前進が微々たるものであったとしても、素直に現実を受け入れて、積み重ねる他はない。興味で人が溢れても、現実と差異を感じればに人は離れていく。最初は騙せたとしても、嘘は自分に返ってくる。
数よよりも、仕事を見てくれている数少ない人を大事にしたがいい。

実際私も、結構なSNS、ネットのヘビーユーザーだ。笑
だけどふと思った。
確かにSNSなどの情報や繋がりから見にきてくれたり、気にかけてくれる人はいる。そして仲間もできた。ありがたいことだ。
だけど、絶対ではないけども、SNSが有効に働く時は、大抵自分自身が動いている時やその結果の時だと最近気がついた。

実態があって、そこについてくるのがSNSないしはネットだ。
広報、告知は未来を指し、有効的な一つの手段ではある。

しかし、有効的に働く起点になる要素に、

"過去、完了、結果"

があると思った。
これは実際、現実が伴わないとできないことだ。

未来を指す願望よりも、過去の結果を指す事実。成功であっても、失敗であっても、嘘をつかないで事実を出すこと。
その積み重ねで未来を指す言葉への信頼度が変わる。
変わった時に、未来の言葉が有効的になる。

だから場を作っていき、場で出会うことを大事にしたい。信頼できない中で仕事をするのは大層辛い。だからネットの見えない線よりも、実際の空間で、つながりを作っていくことが時間はかかっても、その機会に限らず、生涯大事な財産につながっていく。

考えなくても当然の理屈なのだけど、この簡単な理屈を案外理解して行動することが難しい。結果から進むことが多いが、逆走は返って遠回りだ。

私はアナログ人間でデジタルに疎い。
でもアナログ人間で良かったのは、アナログこそ単純な理屈を通らないと動かないものたちばかりなので、自然と遠回りが1番の近道だということを身体に埋め込まれていく。

アナログにこだわればいいと言うものではなく、適材適所でデジタルな要素も入れつつ、アナログ感覚はずっと持っていたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?