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"装い"と"獲得"の言語-自分の分析。

人は当然に影響を受けたり、流される。それが独学のスタート地点だと思う。流されるままに流れてみるのもいいかもしれない。
その内どこかで自分の流れになっていく。
流され続けるのは溺れるので危険。水がないと溺れてることに気づきづらいから、たまに幽体離脱でもして気付ける方法が見つかったらいいかも。

実のところ、8年間ずっと人間不信だったような気がする。
でも黒岩のことはどうにか作品にしたい、とたったそれだけの信念でどうにか保ってきた。体当たり、のように粉骨砕身、とよくわからず勢いで飛び込むのはよくも悪くも昔からの癖だ。よくわからないままに勢いで飛び込んできたは良いものの、いろんなことがありすぎて、心を凍らせて何も思わないようにする技術だけを巧みに備えるようになってしまった。
しかし昨年、少しずつ蓄積された不信はとうとう爆発し、人に会えなくなってしまったし、拒絶するようになってしまった。
最近少しよくなってきたものの、今回復していっている段階にきていれば嬉しい。

私は特段勉強は好きではない。まして学校も好きではない。
飲みの場など楽しくて好きだし、興味の向くままに散歩したり旅先で知らない人に喋りかけたり、いつの間にか輪に入っていっている時もある反面で、何かの拍子に、何かを境に異常な人見知りがでてしまったり、シャッターが降りたら基本的に人と接することが難しくなる。
小学生の頃、学校が休みの日に友達と遊ぶことに憧れていた。
中学生になり、放課後や週末に友達と遊ぶことはあったが楽しいというのとはなんか違う違和感があった。合わせるのがきつい。
高校生になった。短時間は楽しいが、常に誰かといることも負担にも感じるようになった。カメラやバイクという遊び相手や移動の手段を手に入れてからは、自分の居場所を見つけたような気がして、いよいよ自分の世界で楽しむことを覚えてしまった。

カメラがなくとも、小学校の頃から休みの日や学校をサボった日は、いつも一人で川や公園やどこか"そこらへん"を彷徨いていた。いつも自分の世界で考え事をするのは得意だ。社会にはあまり適合できないらしい。
だから自分の興味に関しては貪欲で、6歳児並みの好奇心を備えているのでわからないことは三日坊主でもやらないよりマシだと思ってやってみる。

専門学校の卒業前にはやっぱり写真がいい、と思ったその日に就職活動はぱったりやめた。だが一度はと思い、販売員として働いてみた。
履歴書もそれなりに学校で習ったようなことを散りばめる。
そこでは1年しか続かなかったが、働いてふと思った。
学校は必要だったのか?
学校が必要ではないなんてことはない。業種や分野によっては必須なことは当然だ。
ただ、私が進学した販売ビジネスの分野は、基本的に資格も技術も必要ない。あるにはあるだろうがなくても働きながら習得するが早道だ。

写真もどちらかと言えばこの類で、資格も免許も不要。
アナログ時代でこそ、技術が必要だったが、デジタル時代の今はある程度誰でももスマホやデジカメでセンスのいい写真がすぐに撮れる。カメラマンと言っている人よりセンスがいいことは少なくないし、サラリーマンが休みを利用して休日カメラマンなんていう人も増えてきたように思う。

私自身が写真を独学で勉強したから周囲に多いのかもしれないが、ドキュメンタリー写真は特に独学や元々サラリーマンなんて人も珍しくないように思う。
私は社会人になってからも何度か写真専門学校へと思ったが、一度専門学校を出て働いてみて、何より自分の性格上、学校という場所自体が不向きな気がするし、学校に投資するより、自分次第で自力で独学できるような気がした。

自分の得たいものがわかっている場合、学校へ行けるならば行ったほうが早いには早い。ただ学校へ行ったとしても、出てきたものを一通り習うことが通常で遠回りにも思えてしまう。
習うんではなくて、

「何が」自分に欠けていて、「何を」習得する必要があるか?

が、はっきりとではなくても自問して課題を見つけていかないと、ただ時間が過ぎて終わるように思えた。

それが勉強するということで、勉強は「獲得」していくものだと思った。

私は先に書いたように、学校も勉強も好きではないし、なぜ勉強なんてしないといけないんだ!と思ってきたので、テスト前も暗記型で理解はしていない。だから今後悔することも多いのだけど。

義務教育を、なぜ義務なんだ?と疑問を持ち不服ながらに一応その過程を経て、好きなことを自力でやってみたから、「獲得」することを知ったのかもしれない。
今まで、写真に関して言えば、自分のわからないこと、習得したいことがあったら、その項目のワークショップを探して参加したり、本を読んで身につけてきた。私はまだ足りないものも多いはずだから、このあとも実践しながら自分なりの方法を見つけて進んでいくんだと思う。

"何が"が何かは自分でもわからない。わからないからわからないを探しながら進んでいく。やりたいことが見つかったら、自分で身につける術を、自分なりのやり方で方法論を見つけていけば良い。
学校にいこうと、独学しようと、することは同じだ。そして、人が一人できることなんて微々たるもので、みなが天才ではない。だから私のような凡人はそのくらいのことからコツコツしていくしかない。

そして、悩んだ先に選んで来たのが水俣だった。
ここでは写真の技術というより、そもそもの人とのコミュニケーションや撮影前の調査やフィールドワークと、とにかく初歩的なことからわからないが多すぎて、失敗しながらどうにか進めてきた。自力で身につけたこともあるが、関わる人、場に教わっている。
"独学する"というのは、自分に何が足りないかを見つけて、自分なりの「言語を獲得」していくこと。

独学の最初は"真似っこ"から始まる。
それが一つ今回の不信の原因でもあったのだが。

道がすぐに拓けることはない。できる人もいるが、みな同じように悩み、足掻き、獲得しようと進んでいる。ただ頭で考えても理屈でしかないから、自分の立ち位置に戻って実践する。
"知識"を"経験"と繋いでいく。
この「経験」というのは、多少手間でも省かないほうがいい。

もう一つ、大事なのは対話だ。
不信に陥って遮断したので尚更その重要性を思い知った。
だけど本来は、ちょっとした会話のやり取りでも、モヤモヤをモヤモヤのまま呟いてみると、対話の中でモヤが晴れるような経験は何度となくしてきた。場を探すもよし、信頼する相手と対話するもよしだ。人はそれぞれ違う経験と思考の中で生きている。
案外対極にいるような人と話すと、自分とは全く違った考え方、見え方を発見できて面白い。最近久々に人に会うようになり、再確認している。

最初に独学は真似から始まると書いたが、ただ真似ても意味がない。真似が真似なだけで終わっていく。
面白い人がしたことを真似ると世間から面白がられる。でもそれは身になっていったわけではなく装っただけだから、一時期のことで続かない。
私はそれを「装いの言語」だと思っている。

真似したら"自分"と、その真似た人がしていることは違うのだから、必ず差異は出る。それが検討違いならばまた別を探す必要があるし、これを蓄えて、自分に合った組み合わせを作っていく。撮影は、この作業ともう一つ別に、撮影する相手がいる場合はその相手とやり取りしながら一緒に進める共同作業のようなところがある。

日本の教育が、などとサボりばかり働いていた私が言えるタチではない。
私なんかより、周囲にいる人間は学力ということで言えば、みな賢すぎるくらいに賢い。
瞬時に、獲得した知識を組み立てていく。私にはこれは難しい。
だけどなんか違和感がある。
学校では"考え方"の"考え方"を教われない。
極端だが、1+1=○のような答えを導く方法、そして正しい答えを教わる。
計算でなくとも同じように正解が正しい、不正解は間違い。
例えば◯+◯=10となったらどうだろうか?
結果が10になれば組み合わせは自分で考る。
さらに◯+◯=◯でもいいと思う。
◯に何を当てはめるか、というところから考えて、答えも自分で設定できる。
最近ふと思った。
日本は同調主義で、仲間意識を持ったり、平穏を維持しようとする傾向がある。それはつまり自己を失っていくということでもあるだろう。
写真に限ったことではなく、海外では自己主張が当然に求められる。国柄でもあるが、それが地方となるとさらに同調意識がつよくなる。私個人も自己主張が弱いのは自覚するし、もう少し訓練が必要だ。
写真が含んだ強さは、習得した知識がに加え、自己認識、自己主張。装いと獲得が両立されているからだろうと思った。
海外の写真仲間と過ごした数少ない時間は、そのことに気づかせてくれた。

学校では知識を掻き込んで蓄えるだけに止まっているように思う時がある。
だから与えられる知識を蓄えて蓄えて、ふっと最後の数式のように自分の道筋が白紙になった時に、自分で何がしたいかわからない、という人によく出くわすように思う。
何がしたいか、閃くことはあっても、彗星のように降ってはこない。
そして、現実は書いてあること、習ったこと、さらには見えること、聞こえること、の先や裏側が無数に広がっている。
経験は手間でも省かない方がいい理由はここにある。
この無数に広がった世界を経験していくことで、それが自分なりの言語を獲得していくことにつながっていくからだ。
または言語を獲得する時に、発動する"想像"は実に楽しいものでもあるが、その"想像する"ことは、必ずではなくとも相手の痛みを考えて行動することにつながっていく。

世の中に真新しいものはないと思っている。
新しいと思っているが、実は過去に似たような考えやものはすでに存在していて、その組成を変えたり、化学反応を起こしたりして出来上がっていくんではないだろうか。
そして、その時代の社会背景や作り手の置かれた背景などから、後から知っていくと案外同時多発的に似たようなことがあちこちで起きている実態を知るととても面白い。

どうしたら自分の"何"が見つかるか?
私もだし、大抵の人が、他人の事や、他人の写真にはとやかく簡単に言える。言ってしまう。しかし、これが自分のこととなると実は一番難しい。自分の写真をみることが一番辛い。
無理することがいいことではない。苦労話が美しいわけでもなく、だけど楽をすることがいいわけでない。何かを成し遂げるには、当然の苦労がある。ただ自分で考えて動いて自分の方法を見つけたらいいだけだ。

何が自分に足りないのか、何が必要なのかを問い、集めて、自分なりのかたちを吐き出す。そうしたら大抵はエラーが出る。(失敗ともいうのかもしれないけど、失敗というよりそれは大事な糧だ)そうしたら一旦止まって何が原因か、それは自分が思っていたものか、確かめて近づけそうなら、もう一回。見当違いなら集め直すところから、というような具合ではないだろうか。それが自分なりの方法になっていく。
私が写真のことだけには貪欲に動き続けられる原動力は、「わからなさ」にあり、「知りたい」という好奇心だろう。逆に、社会の"わからなさ"に触れていく一つの手段として写真があるのかもしれない。

専門学校で勉強した中で唯一、と言ってはどうかとも思うが役に立ったことがある。それが"自己分析"だ。
大したことはしておらず、授業もなかば遊びのようなラフな時間だったが、マーケティングという授業があった。
その授業では自己分析をビジュアル化する、という本当に簡単な内容だ。
まず1年の頃は、自分の好みの雑誌など紙媒体を持ってきて、与えられたテーマと、自分のライフスタイルや思考のイメージに合ったアイテムや素材を切り抜き、B4用紙にイメージを作っていく。ビジュアルマップ作成だ。
もう少し授業が進むと、市場の傾向、ニーズを探ったり、実際に街中へ出てそれらがどう影響をしているかを探る。そして調査段階での集積した結果は、都市部なのか地方なのか、土地の気候、対象次第でもあり、その町でこそ独自の展開をしているからそうしたことも観察する。
私が写真でしていることも大体が同じだ。
傾向やニーズに合わせて、というのは商業写真ではないので少し違う部分もあるが、活動する町の実情や写真表現の傾向なども自分なりに視野に入れておく必要はある。
だけど、まずは自分が何を撮りたいか?が一番肝心だ。

何を、は最初の段階では漠然としていてもいいと思う。
逆に、事業や助成金内での活動では真逆で目的を決め、計画を立て、進めていく必要がある。私はこれが苦手だ…相手やその土地の温度や速度がある中で、箱に押し詰めてしまうようで違和感がある。

人生どう進みたいかなんて、計画を立てたとしても計画通りにはいかないし、いろんな出会いや知らないことが溢れている世界で、自分の範囲の中だけで決めてしまうなんて勿体無い!と思ってしまう。
違うと思うことでもやって見れば得ることはあるだろう。
でも生きている時間なんてあっという間に終わってしまうのに、そして何をしようと物事には困難はつきものなのだから、どうせ困難にぶつかるなら砕けても後悔しないような好きなことでぶつかりたい。
そしてそれすらも楽しみたい。
結果として、活動の仕方、何を選択するか、ジャンルや分類、分かれてはいくし、それぞれのテイストがあるだろうが、それを選択すること自体、そして活動していくこと自体が生き方を示す。
だからロックだ、クラシックだ、なんだと分かれても表現者として通底するものは多い。

写真とファッションの共通点。
ファッションはファッションというように流行やおしゃれをするという意味合いで外見の要素を指すことが多い。ファッションは、表現としてのデザイン、芸術分野として認められないような部分があり、そこに抵抗するように活動してきたデザイナーたちがいる。時を超え、または各地コレクションとして発表され続けるものの中には、装飾としてのファッションという意味を超えて、時代やデザイナーの声として表現される。私は自分がオシャレをするというよりそうしたことを勉強するのが好きだった。
その点、写真も今は誰もが簡単に撮れる時代。そうでなくても絵画や現代アートのような創造性というよりは、目の前の現実をうつしとる写真は芸術という分野よりも、その写実性から記録として重宝はされる、これが表現として受け入れられることは少ないように感じる。
そうした芸術分野から外されてしまう部分はよく似ている気がする。

話を戻す。
越した時は20代後半。周囲もそのくらいの年代は大抵社会人に慣れだし、自分の社会的役割や自分自身について考えたり、人によって家族が増えたり、何かしら人間の生き方を考えることも増えるんではないだろうか。

その頃の私も同じく、写真というものがありはしても、どう進んでいきたいが考えていたし、今も考えて悩み続けている。私の場合は、どうにか足掻いても、マイナスがプラスになるというより、ゼロに近づくくらいのことだ。だけど写真に取り憑かれているから、どうにか人並みに撮れるようになりたくて、馬鹿にされても不器用でも勢いでどうにか進めた。

写真に言語化は必要ないという人もいるが、私はそうも思わない。言葉で全てを説得するような写真はもう少し写真を見直す必要を思うが思うが、言語化できない事は自分でも理解していないことが多い。
明確な言葉を選ぶ必要はない。だけど、言葉にすると思いもよらない自分の中の思考に遭遇することがある。遭遇するたびに、更新しながら少しずつまとっていく。
そして、意味や読み方は同じでも、言葉の選び方、漢字の違いで感触や感覚が変わるし、類義語や対義語をよく調べる。
だから今は携帯にアプリを入れているけど私は国語辞典が手放せない。
何を作りたいか、そしてどんな言葉を選ぶか、それも自分が向かう先次第で皆違うのだから自分で考えて、切り開いていくしかない。
ただここに書いたように、特別なことはなく、私でもできるような簡単なことを考えて、実践しただけだ。
考えればわかるような理屈でも、実践した中からよく発見する。
たとえ簡単なことでも経験、実態から獲得することで身にしていきたい。

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