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風のにほひ 2024.8.1 thu

いつものようにバイクを走らせる。
街中をバイクで走っていると身体中に熱風を浴びる。
それだけで体力を奪わるのだけど、そこに爽快さなどない。
だけども、水俣は街といってもずいぶん小さな町だ。
平地がないから、賃貸も地方の田舎にしては割高だし、物件が少ない。
メイン道路の3号線も、水俣市内を抜けるのに数kmの話だ。そのメイン道路以外は大抵山か海か、川沿いを走ることになる。

そうすると一瞬で浴びている風も変わる。
山から木々を抜けて吹く風は、土や木の匂いと一緒に涼しい風を運ぶ。
川の冷気で冷やされた空気が風になってやってくる。
水が流れる音が、バイクのエンジン音よりも大きく聞こえたら尚更涼しく感じる。
海も同じで、川のように冷やかな風ではないけども、アスファルトやコンクリートが覆う街とは違うからやっぱり涼しい風が吹く。
潮が満ちている時は、甘く、美味しそうな潮や磯の香りがする。

風で体感するのは、温度だけではなく、香りがその土地の印象に紐付けされていく。
温度も香りも、思い出して同じ感覚を得られるわけではないのに、思い出すのはいつもそうした言葉で言うと易くなってしまうような感覚ばかりだ。
五感の感覚で得たものから情景を思い出す。

バイクは節約には欠かせない手段だ。
手段であるけど、乗っているだけで楽しい。苦楽を共にとでも言うと大袈裟かもしれないが、乗っている間中考え事をする。そんな時間が好きだ。
と、そう言う割に機械系統のことはさっぱりわからない。
6年前のバイク事故で、もう乗らないだろうと初めて数年バイクを持たなかった時期がある。
だけど、4年前の水害の後、何度も何度も現地に通って、その土地のことを知りたい、と思うほどに、フィールドワークでの車移動がとても嫌になった。

楽ではある。でも確かにその場所を通っているのに、全く別の世界にいるように遠く感じた。
単に車は鉄の箱なので、外の空気とは断絶され、一つの空間のように思えた。なぜかそれがものすごくその場から遠ざけられているような大きな距離を感じた。
何より、小回りも効かないし、気になった場所で止まることもできない。動きの制限も嫌になった。
でも一番嫌だったのは、香りがしなかったことだ。
私の場合、きっと香りから印象を保つことが大きいのだと思う。
風を体感できないということは、この香りから断絶されるということでもあり、それがとても、自分でも不思議になるほど嫌だった。
黒岩へ登る時も、3号線から山へ登り始めた時の山の匂い。
近づくにつれ杉山の匂いがする。
生き物がいる森は、土の匂いがして、木々を通り抜けてくる匂いが一層強くなる。獣が通った後は獣の匂いもする。
私にとって、それを感じることが、土地を思うときに重要な部分だった。

そのことに気づいて、すぐに中古で同じバイクを買った。
初めて新車で買ったバイクで、中国ヤマハという安物ではあったけど、ある時は山の中で、田んぼのど真ん中でパンクして、電車までどうにかたどり着いたり、声をかけてくれた人が加勢してくれたり、自力で自家用車に乗せ、回収したこともあった。本当に苦楽を共にしていると思う。

9年前の秋、熊本まで仕事に行っていたので、帰り着く頃には疲れ果てていた。だけど、水俣市街地を通り過ぎ、袋の小さな山を越え、下り坂に差しかかったところで、いつも目の前の合板工場からパルプと薬品の混じった匂いが、冷ややかに湿度をもった空気と一緒に流れてくる。
その時に、やっと家に帰り着けた、と安堵する。
いい匂いとは決して言い難いが、私にとってやっと自宅にもうすぐ帰り着ける、という安堵の香りだ。
合板工場から曲がり、さらに家に近づく埋立地の畑を通れば、時折磯の香りや、春が過ぎ、玉ねぎの収穫時期になれば玉ねぎの香りが立ち込める。
風が強く、海風が吹けば、合板工場から上がる煙が畑に降り注ぎ、さらに強いパルプと薬品臭がする。

ふと風に名前があるのか気になった。
そうしたら、農業や漁業の仕事をする人がつけた名前を中心に、2000以上の名前があるそうだ。
驚きもするが、それより想像するだけで、胸が躍ってしまう。
潮の話をする漁師と同じで、その体でしか感じられない、言葉では説明できない風を想像する。それだけで幸福を感じる。

今年はすでに40度を超えて、2日前には栃木で41度を記録したらしい。
いよいよ。いや、いよいよと言わずずっと異常気象、想定外なんて言葉が飛び交い、逆にいよいよ異常でも想定外でもなくなってきている。
そもそも人間が想像できるはずもないのが自然だ。
想定できるはずがない。
彼らは私たち人間の想像なんて及ばないところで、地球という自分たちの体を守ろうとしたり、適応しようとしたり、体をグネグネと音を立てながら調整しているんではないだろうか。
私たちはそこに仮住まいをしている身分だと思うのだけれど、どうにも無理をさせているような気がしてならない。

人は発展することばかりを求めてしまい、後退することを研究しない。
進むことを良しとし、下がることをネガティブにとる。
しかし、本当にそうだろうか。
ものを創るも、行き詰まったら少し下がる。下がることを覚えておくとまた進めるようにもなる。

私は、街を作ることより、森を作る方法を考えたがいいと思う。
山を簡単に切り崩しているが、山は作れるものでもないし、戻せることもない。
切り落とした水の脈は、血管のように人工血管でつなぐ、なんてこともできない。水の脈のある山のトンネルは夏は冷房より寒く感じる場所がある。
久七トンネルは4km近くある長い長いトンネルだ。
昨日も、そして初めてバイクで遠出をした16歳の時も、暑い日差しからこのトンネルに入り、ひやっとする冷気を感じて一気に回復していくのだけど、出口に到達する頃には寒さに鳥肌がたっているほどだった。
風を感じながら感動するものの、このトンネルのおかげで水の脈は切られなかっただろうかと心配になる。
便利ではあるのだけど、なんとも複雑でもある。

そんなことを考えていた昨日で7月が終わり、もう8月だ。
毎月のように1日が来ると、"もう〜月か…"と時間の速さにため息が出る。
1ヶ月の間にできたことを思えば、いつも微々たるものすぎて、先を見てしまうと生きている間にあとどれくらい…なんて大袈裟だけど思ってしまう。
そして12月の年末まであと〜カ月…と意味のないカウントダウンをしている。そう思っている間に、もっとこんなことが、あんなことができたんじゃないだろうか…なんて振り返り出すと無力感に襲われるけども、時間は戻りも止まりもしない。ただ進むだけだ。
そう思うと、過去を振り返ったり、反省する時間すらもったいなく思えてくる。だから振り返らなくていい、反省しなくていい、なんてことではない。
ただ進むものだから、執拗に過去を見ると進む足を遅らせる。
きっと自分で嫌でも自覚するから安心していい。
ただ自分を締め付けすぎると本当に進まない、というより進めなくなる。
失敗したら、儲けた!と思って学べば徳するし、誰もがそんな簡単にいったら商売上がったりだ。
変に期待せずにコツコツ失敗も経験も全部ひっくるめて積んでいけばいい。

私は、ダメで元々、と思っているところがある。
だからダメ元でなんでもやってみる。うまくいけばそれも儲けもんだし、ダメでも経験とそこで考える思考の儲けもんをする。
何より、やってみること。

目立つのは苦手だ。苦手でもあるけども、派手な賑やかさを求めてもいない。どちらかとういうと、と言わなくても地味な方だし、何かに属したくはないし、派手で賑やかなものには圧を感じるようで引いてしまう。
何より、写真でもある見せ方をすれば上手く収まり、世間体にも受けるだろう…という定型が多少あると思うのだけど、どうしてもそんな型にハマりたくなくて、所謂ウケないだろうけど、もっと別の路線を探し求めてしまう。
臍曲がりかもしれないが、ものごとを大きく、面白く消化することにどうしても違和感が拭いきれず、平坦な中のほんの小さな出来事を、大きくも小さくもなく、ただそのまま受けとり、感じたことを描きたい。

きっとそんなことをしていると、何かと評価からは縁遠い。
縁遠いけども、欲してもいないから期待することもない。
そうしたものにはダメで元々、何かあればラッキー、くらいなもんだ。
なんて言いつつ、いい加減なこともなく、ただひたすらに努力はする。
矛盾しているようだけれど、人間なんて矛盾の生き物だ。
私も矛盾の塊でできている。だからいつもゆらゆら帝国に住んでいる。
まさに"ゆらゆら帝国で考え中"なのだ。
でもだから続けられているようなところがある。
生きている時間の中で迷いがなくなり、全てが熟成して出来上がってしまったら、それが終焉だろうか。

まだもうしばしの間、悩ましい日々に揺られていたい。




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