在る場所、帰る場所ー在処
今年の秋には、水俣へ越して9年になります。
来年はいよいよ10年。まだそんなに歳をとった気はしていませんが、もう10年ですか。長かったのか、早かったのか、いつも通り過ぎた時間を思うとわかりません。
いい経験は、いい意味でも辛い意味でも沢山させてもらったと思います。今もその最中です。
まだ総括するには早いですが、生まれてからずっと熊本市内で過ごしました。一度近くの北区へは引っ越しましたが、その後初めて少し、離れて水俣で過ごしています。といっても近距離移動なので、大まかには36年熊本県人です。
ただ8年過ごした中でよく、自分の在る場所、または居場所、そして帰る場所、自分の在処について考えることが多くありました。
移住者にはよくあることかもしれません。
引っ越してすぐは、早くこの土地に馴染みたいと不安もあるでしょうが、楽しみや好奇心のほうが勝り、どこへいくも新鮮で、次々にやりたいこと、みたいこと、知りたいことが溢れてきます。そして、慣れない方言や地元の人の呼称を真似てみたり、早く馴染みたい、いわゆる地元人になりたいと思うのではないでしょうか。
私は熊本ネイティブなので方言にはあまり違和感はありませんが、そしてそういう方言や気候、風土が肌感覚でわかる土地で取材したいと思い、時間をかけて取材できることを考えてここに至りましたが、県内移動でも案外カルチャーショックを感じました。
例えば。
市とはいえ、主要な道路は限られていて、買い物に出かけたり、どこかへいけば知り合いに会う、なんてことは珍しくありません。
でもちょっと驚いたのは、車を運転している時。対向車線の人の顔をよく見ていること。
すれ違いざまに軽い会釈か手をあげて挨拶を交わします。
「あ、誰々がどっかいきよらす」
「どけいきよっとだろか」
「あ〜○時だけん仕事帰りね」
そして、車のナンバーもよく覚えています。
私は自分のバイクも車のナンバーも覚えられていないけど、なぜそんなに覚えられるんだろうかというほど、フロントガラスが反射して誰かは分からなくてもナンバーでわかります。
撮影している山間部は人と人との距離がもう少し近くなります。
最初は、対向車線に知り合いがいるほうが稀なことが普通だったので、この行動を把握されている、ということに慣れれなかったのですが、最近は馴染んでみようとナンバーまでは覚えられませんが、対向車線を気にかけてみるようになりました。
まだまだ訓練は必要で、気を緩めるとやっぱり気にしません。気づいた頃には通り過ぎています。
あっ、、気づけなかった、、、と少し落ち込みますがやっぱり少し難しい。
少し話しはそれましたが、近距離移住とはいえ、引越し当初はやっぱり早く馴染みたい、地元人になりたいと思っていました。
でも同時に、取材に関することについては、わからないままに勢いできてしまい、わかっていてきても直面したような気もしますが、次第に心を閉ざすようになりました。
黒岩での撮影はなんとしてでもする、覚悟してきたからにはそれだけは成し遂げよう、他のことへは心を閉ざして必要なことだけ、とにかく撮り終えるまで、と何度も自分に言い聞かせていました。
引っ越してすぐの頃の仕事は、できるだけ撮影に当てたかったので、少し割のいい熊本での撮影バイトはそのまま継続し、コンビニ、飲食店の洗い場のバイトの3つ、掛け持ち体制で働いていました。
元々引越し費用もほとんどないままに、カメラを売り、自力で自家用車で引越してきていたので、働き続けで、合間に撮影、リサーチと時間を駆使していました。年齢も20代なので、多少寝なくても無理が効いたので、月の半分は撮影バイトで125ccの小さなバイク(50km/Lなので往復ワンコインでできました)で下道往復5時間の道のりで熊本で仕事をし、バイトも1日16時間働いたり、その合間に何か詰め込んでと異様な仕事の仕方ができました。もう少し上手くやれる方法や実家や親に頼れる人は何かしら方法が在ると思いますので、お勧めしないので真似しないでください。
でもこの時、ここに馴染もうとしている自分。
逆に、熊本市内に帰るとホッとする自分。
二人の自分がいました。
水俣へ「戻る」、熊本へ「帰る」。
馴染もうとしても、帰ろうとする自分はいませんでした。
熊本へ帰ってホッとしていることはわかっているのに、どうにか水俣へ帰ろうとして、自分で自分に押し付けるような、どちらからも圧迫されているような気持ちでした。
そんな暮らしを数年していたら、事故に遭いました。
もっと写真が勉強したい、もっと撮りたい、もっと、もっと、、とバイトも撮影も全てを無理に詰め込んできた矢先のことで、事故というより自分自身がパンクしたような気がしました。
これを機に、自分の限度は分かったような気がして、限度を超えるような無理をするのはやめるようになりました。
いろんな考えを改める転機でもあったのでこの後も、事故の話しは度々出てくるかもしれません。
でもこの時ベットの上で初めて。
水俣へ帰りたい、と心の底から思いました。
いきなり遠のいたような気がして、少し焦っていたのかもしれません。
でも初めて帰りたいと思いました。
だから入院中の年末年始、実家に帰ると病院には嘘の外出届けをして、オレンジ鉄道で一人水俣へ帰ってきました。
ここでみる景色がどこをみても眩しくて、愛おしくて、離れたくなくて、ずっと自転車を漕ぎ回り、元旦は茂道を越え、県境の山頂から日の出を眺め、帰りの時間まで街中を歩き続け、写真を撮り続けました。
元々、利き手が右手なので目も右利きですが、後遺症で左目を使うようになり、その事実も受け入れがたく、撮ることで早く慣れようと自分を宥めるように撮り続けたのかもしれません。近くのものを見る時はちょっと老眼のように離して見たり、片目で見るのはそのためですが、あまり気にしないでください。目もカメラのレンズとよく似ているものだと感心しました。
ようやく帰る場所になりました。
そうして、それからまた同じくらいの時間が過ぎました。
慣れとは怖いもので、やっぱりここは帰る場所ではなく、気持ちが滅入るとすぐ熊本に"帰って"いきます。
まだまだ慣れれずに我慢が続いていました。
でもふと思いました。
私にとって、きっと帰る場所は変わらない。
土地に馴染もうとして、余所者扱いされないように真似たり、背伸びをしたり色々してみました。でも帰る場所は変えられない。
物理的に帰るのは今の自宅です。だから"帰る"ことは帰る。
でも心理的に帰るかというと、やっぱり帰りません。
ここではない、あちらに帰って行きます。
心理的な「帰る場所」というのは、生まれ育った場所に息づき簡単には変わらない。移動できないのか、しないのか、土地と人との結びはそう簡単に変えられない、とそんな気がしました。
でもまたふと思います。
"帰る"場所になることがいいわけでもなく、"帰る"場所ではないことを受け入れてみる。スッと体が楽になりました。
"帰る"場所はそれぞれの体内に埋め込まれていて還っていく場所でもあるんだと思います。
ここは、還る場所ではないけれども、在ることはできる。
在る場所、体を置いている、”在る”ことを受け入れて、還る場所で創られた自分の体内を通して観る。
帰る場所なだけではなく、還る場所にまでしたいという、意気込んできた時の好奇心、躍動感とでもいうのか、行動力を盛んにした魔法が、時間が経つと少し解け出して、平坦に見えてきます。
面白くもおかしくもなく発見した時のような感動が薄くなる。
でもここから先が、面白いんだと最近つくづく思います。
最初と今では変わらないもの、見えなくなるもの、逆に見えるもの、様々あります。
何も知らないで踏み込む度胸のようなものは少し衰えますが、でもやりたいことが見つかるとやっぱり踏み込んでしまう。
知らないことが少しずつ知ってることになって、知ってることの中に角度を変えてまた知らないことがやってくる。
そうすると次は横の広さだけではなく、縦の深さを掘り進んだりします。言い続けると堂々巡りになりそうなのでこの辺でおしまい。
私にとって、ここはやっぱり帰る場所ではない。
心理的に帰る場所になるには、年齢の半分以上過ごして初めて帰る場所に還れるように思います。まだこれから生きてみないとわかりませんが。
でもここが今、私の在る場所です。
時折移動して地点を変えながら、
帰る場所と在る場所を巡りながら、
自分の内の在処を探しながら、
日々を過ごしています。
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