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2024.5.4 sat 晴 - 遭遇の試み

5月にもなると日が昇るのも早くなりました。
朝8時。外を見るとこれがGWの日の強さだった…なんて思い出すような見るからに暑そうな1日の始まりです。

本日の予定。
朝から水俣市内をとにかく自転車で漕ぎまくること。
そして、撮影の方法を"遭遇"で行ってみること。
正直、1本取れるかどうか…と心配になのまま朝から出発しました。

始める前に心配な点がいくつかありました。
・このご時世、そもそも写真を撮っていい、ネットでの掲載可という人はいるものか。
・はたして、そもそも人に遭遇するのか。
・遭遇したとして、ここでまさかの人見知りを発揮して、声がかけれないという自分の問題は発生しないか。。。
などなど
でもとりあえず動くしかないので、暑そうな日差しの中、出発。

最初は、住んでいる西ノ浦の対岸に見える湯堂へ。
湯堂港は熊日の釣りニュースという週1発行の釣り雑誌でも、時折釣果報告が載っているほど、釣り人が多いように思います。
集落中心へ行く途中、人にはほぼ遭遇しないが港の波止場には釣り人が見えました。早速寄ることに。


湯堂の波止場

釣りをする時は、見知らぬ人同士でもすれ違いの挨拶がてら、釣りのコンディションや成果を話したりします。釣り人は案外みな気さくです。
6〜7人いる中の5人はフカセ釣り、1〜2人はアジングや小魚(こっぱぐろとよく言ったような気もします)。フカセ釣りの人もアジング、エギングの仕掛けを持ってきているよう。

堤防へ進んで二人目くらいで話しかけてみました。
小さなアジが2〜3匹釣れているけど他は全く…だそうです。周囲も釣れている雰囲気はありません。本来はフカセなのでチヌ狙いです。
その人は人吉から釣りにきていました。

先に進み、堤防の一番先へ行きました。
風は体感より少し強い印象で水面が揺れています。
だからなのか、いつもより"ゆうひら"くっきり、そしてはっきり見えます。
綺麗な川の水が湧き出すところを見ると嬉しくなって頭を水中につけ、そっと湧水を飲む。
そんな贅沢なことをしていた幼い頃を思い出しますが、海となると壮大さなんていうと笑えますが、壮大に思えて大地の循環に感動します。
紫尾山の水が湧いているそうです。紫尾はいつも徹夜で朝まで作業をしたら、大抵部屋が占領されているので、お風呂場も使えず、疲れをとりに必ず行く温泉です。(朝5時から、1時間かかるので4時発でちょうどいい時間帯です)


湯堂の"ゆうひら"

話はそれましたが、湯堂はそのくらいにして町のほうへ向かいます。
日差しは暑いですが、風は気持ちいい、ぎりぎりの季節…とでもいいましょうか、下り坂は爽快です。

次は百間港に人が多く見えたので、そこへ行くことにしました。
釣り人以外見えません。
数年前、散歩をしていて人の動向で気づいたことがあるのでそれはまた後日書くとします。

百間港に入り、最初に出会った人の釣りを少し眺め、巻き始めたらベラが釣れていたので、つい「おぉ」と声が出ました。
そうしたらすかさずその人は
「これは餌よ。。」
というので、
「そらなんば狙いよっとですか?」
と聞いてみます。
「こらイカ」
と投げやるように、でもそっと教えてくれます。
釣り人との会話の始まりはいつもこうで、慣れているのでさっと声がかけれます。

余談ですが、シマノやダイワの大手釣りメーカーの衣類で、今時の腰や肩から掛ける小型のPFDをつけ、サングラスに釣り用グローブで全身バリっと決めている人は少し喋りかけづらいです。。。笑

イカ釣りは大抵、特に若い人はエギで釣る人が多いので、小魚の生き餌で泳がせながら釣る方法は初めてみました。水俣の港の堤防はどこそこイカの吐き捨てたスミ痕があるのでイカがよく釣れるのでしょう。


先に釣ってきた生餌にするベラ。「こんごらベラもいっちょんつれん」とぼやく釣り人

少し先へ進み、次の人へ同じような雰囲気で話してみます。別の車がスッと横に来て、降りてきた男性が親しげに話しかけます。そうすると最初に話しかけた人も会話に混じり出しました。
どうやら釣りに来て親しい間柄になった釣り仲間のようです。
この人たちは、長島から、後二人は水俣の月ノ浦やまさかの同じ団地の住民でした。新しく買った竿をみんなで見ながらなんの、どこそこの釣り場が…と話しているのを、なぜか一緒に混じりなが聞いてみて、そのうちの一人の写真を撮りました。自然と入れる感じです。

それからまた次の人に自然に進んでみます。
さっきから気になっている、ご高齢の男性。椅子に座りじっくり釣りをする風格、その人の周囲にだけは少し時間がゆっくり流れているように思い、きっと地元の人だろうという予想がついたので話しかけてみました。

その人は、山の久木野からよく釣りに降りてくるそうです。
御年95歳。
毎日焼酎は量は減ったが、「ちびっと、こがしこ飲むと」と手でコップに注ぐ分量を教えてくれましたが、それが健康の秘訣でしょう。
共通の知人がいたり、外国や県外から来ていた人の受け入れや地域でのことに参加していたようで、そんなことを話ながら時間を過ごしました。
こちらにも途中でやってきた、釣り仲間がおり、その人も地域活動に参加していたそうで、どんな人が色々詳しいかなど教えてくれました。
最後に写真を撮らせてもらい、話の中でどのあたりのお住まいかを教えてくださったので今度写真を持って訪ねてみようと思います。
山手のことへつながっていけばと思います。

御年95歳。久木野の小島さん。

そうこうしていると最初に話した人たちが、強風で今日はもう釣れないと判断したので帰り始めました。それぞれ挨拶を交わします。初めて会ったのに、初めて会った気のしない、そして次また会うような、不思議な別れでした。

ゆっくりしていたら、お昼になったので、昼食へ丸島へ向かいます。
やっぱり人に遭遇しません。。。
厳密には、お店の近くは人はいるものの、久々にGWらしい人の多さで帰省や他所からの来客も混じり、ちょっと違うなと思い、足を止めることなく進めました。

丸島は、いつぶりでしょう。まるしま食堂。
知らない間に、ちゃんぽん唐揚げ、という新商品がありそれを注文しました。
水俣へ来て面白いと思ったのは、わかたけ食堂というラーメン屋と出水市に入り少し進んだ先にぶんちゃんラーメンといつも列を作るラーメン屋がありますが、そこにあるのが"ギョーザラーメン"なるものがあります。
単純に、ラーメンの上に餃子が乗っているんですが、熊本ではみたことないので面白く、こちらではオーソドックスなメニューなんでしょうか。
ちゃんぽん唐揚げも乗ってくるかと思ったら、別皿でやってきましたが、やっぱりアジの干物から出汁をとっているだけあって、あっさり、でもしっかり美味しい。。。久々に食べて美味しさのあまり、一瞬で食べてしまいました。水俣へ来たらぜひ寄ってみてください。

食堂を後にして、今日の折り返し地点。
大崎鼻公園へ。
やっぱりここでも人に遭遇しないのですが、風が気持ちいい。1日ここで寝ていられそうです。
幸せな時間をちょっとの間過ごし、戻ります。


大崎花公園のベンチからの眺め

途中、水光社分店あたりで、水場に入って写真を撮りたい…と思った場所が探せずにいたので少し脇道に逸れてみました。
そうしたら、小川というより工場横の用水路ですが、小さな葉っぱの影?ん?と目を凝らしていたら、いくつかの影が泳いでいます。
メダカのようなアブラメではなさそうですが小魚の群れです。
感動して動画を撮って、少し進むとヤマトバエの群れです。
最近めっきりみなくなったハエの群れがあちこちで見えて安堵しました。

小魚の群れ


小魚、ボラでしょうか?

帰りは徳富蘇峰・蘆花生花に寄り、フラフラと気になったらちょっと自転車をとめてのぞいてみる、と繰り返しながら帰路へ。
でもやっぱりのぞいてみてしまうのは、魚の群ればかり。
さっきはハエがいたと思ったら、海に近づくにつれ、少しずつ群れる魚の種類が変わり、おそらくほとんどがボラの群れのように見えましたが大きさも次第に大きな魚が群れをなすように。
そして、さらに海に近づくとチヌが混じりだし、ボラも40〜50cmありそうなボラが混じり始めます。百間排水溝あたりには大きなチヌが3〜4匹の群れをつくっています。

そんなことを面白がりながら、帰っていると百間港手前、汽水が海に交わるところの角っこに釣りをしている人を発見しました。
やっぱり気になって声をかけると、なんとなく…見かけたことがあるような人。記憶が曖昧だったので、そのまま話を進めると、エギやワームで色々狙っているそう。この辺は泥ものが多いから美味しいかは…と首を傾げながら話していますが、食べるというより、釣る行為が好きなのかもしれません。
水俣では、以前ボラ漁が盛んだったようで、ボラカゴを使って、家々のレシピで餌を作っていたという記録を読みました。今、食卓やスーパーではほとんどみかけないように思います。
ボラも汽水域より、沖のボラが美味しいです。天草で釣ったり、道の駅で格安で買えたので、鮮度の良いものは刺身、そうでもないのは白身フライにしてよく食べていました。
最後にその人も撮らせてもらいました。
みたことがあるように感じたのは、どうもバイト先でよく見かけていたからのようです。
きっとこんなことはこれから増えるような気がしました。

これが今日丸一日の動向です。
実際動いてみると、やっぱり感覚的にできること、できないこと、次に必要なこと、動き方が見えます。
丸一日、自転車を漕ぎ続けるのはこれからの季節は少し辛いでしょう。
そして丸一日ただ動いていても人の行動する時間は限られているので、時間、エリアを絞りながら、数時間、あるいは半日単位で動くと、他の作業も行う余力が残せるように思いました。もう少し動いてみないとなんとも言えませんが。

いつも散歩しながら、または撮影で出会った人と話していて、どう返したらいいものか、複雑になることがあります。
たまに、市の広報さんですか?
と聞かれたりもするし、写真も撮るときに、会話のはじまりとして簡単にどこに住んでて、どんなことをしているか話します。
そうすると大抵、どこの生まれですか?と返ってきます。
地元に住んではいるけど、地元の人でわざわざ歩いて日常の暮らしや色々聞いて回っている人は、そうでなくても稀なものでしょう、地元の人間ではないことがわかります。

次に水俣のどこに住んでいるかと尋ねられるので、袋の西ノ浦だと答えます。たまに、そこで少し勘のいい人は次に、
「水俣病かなんかのあれ?」
と返ってきます。
嘘をついてもしょうがないので、引っ越してきた経緯や少し詳しく説明したりもします。この日も実は、「関わるとめんどかけんならん…」と小言が返ってきました。本音だと思います。
今までも、そうしたことは少なくはなく、割と水俣病関連のことには批判的、愚痴るような声が聞こえることはしばしばです。
そうしたことも含めて話を聞きたいと思う部分でもあるので聞きますが、割と自分もその批判の先にいる種でもあるので時折きついなと思うことはあります。

"他所から来た人"ということに加えて、"袋に住んでいる"というのは、基本的にその類だろうとあたりがつくのでしょう。
「袋はそがんとの多かもんな(そういう人(水俣病絡み)がおおいもんね)」
「袋は変な人多いよね」
と、なぜかということは分からずとも、"変な人が多い"というのは水俣市民共通意識なのかよく言われます。
被害の多発地域でもありますが、それを支援しようと移り住んだ人や、活動拠点があったこともその理由でしょうか。
袋地域が、市の中でも少し孤立しているように感じ、それはこれまでもいろんな本に記載されていますが、益々実感します。

以前、大雪の降った日に袋のみかん山であった老人は、
「水俣の方はそがんなかったてたい(水俣市街地はそこまでふらなかったそうだ)」
と、山を越えた遠い町のことを指すように水俣市内を言います。距離にして5km程度なので、私からみるとすぐそこです。
距離感の感覚は、実際に話してみた時の相手の音声から伝ってくることが多く、何度か、または何人か話していると掴めるように思います。

"都心の一駅は歩ける範囲"と一駅二駅は歩く人もいるでしょう。
地方都市の近所のスーパーは遠くはないけど、車で行く範囲。と、
"近いけど(心的には)ちょっと遠い距離"に感じます。
さらに地方でも周辺地域、またさらに山間部、と所謂街中から離れるにつれ、実際の距離より、心的よりは遠くに感じているように聞こえることが多いです。
2020年の水害以降、そして昨年のアーカイブ活動をしていた、八代市坂本町も、球磨川下流域の地域で、町の中央を流れる球磨川流域を中心に、大半が山間の集落で形成されています。
さらにその中に地区が分かれているのですが、生活様式や生業、集落行事なども地区ごとに割と大きく違う印象がありました。
ここでも話していると、それぞれ中心地への行き交いはあるようでしたが、それ以外の地区ごとの間の距離感はやっぱり少し遠く聞こえ、ちょっと離れた山あいの地区へ行けば、「あそけいったこんのなかな(あそこには行ったことがない)」と、よほど用事か親戚がいない限り行くこともないほど、遠く山を越えたその先の集落のように聞こえました。
そうかと思えば、実際に同じ地域の地区より遠く、山越をして行く五木などは、「その山超えたら五木たい」というふうに、遠くはあるけど歩いていけない距離でもない、というような感覚で聞こえてくることがしばしばです。
この住民の"体感的距離感"は、実際に会って、話す音声のトーンでみな少しずつ違ったり、共通していたり、受け取る人の感覚で、あくまで私の感覚的な印象ですが、そんなことを感じながら聞いています。

話は戻り、中には、「今時、本物の患者なんておらんとよ。」
という人もいます。
私はそれらの言葉を聞きながら、胸中は複雑です。
でもゆっくり話して行くと、その人たちの家は漁師さんだったり、何かしら漁協関連だったり。自らも何かしら被害者手帳を所持していることは少なくありません。
または手や足に怪我の痕があったり、最近の怪我事情を聞けば、
「ここのほぅ、こがんして感覚んなかったけんわからんでがん怪我ばしたっばい(ここがほら、こんなふうに感覚がなかったからわかわずに怪我をした)」
「仕事中に火傷したけど痛みのわからんで、腐ったとばにおいで家族が気づいてお尻ん皮ば、ほぅ、こがん移植したつばい」
と聞こえてきたりして、実際の原因が全て水俣病というわけではないでしょうし、それが原因か答えを出せる人もいないと思います。
ただ、そんな話の随所に出てくる感覚障害と思しき話や、何かしらどこかに接点のある人ばかりです。

そうでなくても、商店街で飲んでいても、チッソ関連の人たちの恩恵を受けてやってこれた、と話す人もいれば、懐かしげに闘争時代の出来事や情景を話す人もいます。
きっと、一切関わっていない、関係のない人はいないのだと思います。
ですが、偏見も含まれるような批判を聞くたびに、その人にその言葉を言わせているもの(根源)はなんだろうか、とずっと考えています。
それが病像としてではなく、心像としての病がもたらしたものの本質を孕んでいるような気がずっとしています。

"文化"という言葉や土地で生きることは、どこか歴史的、または民俗的文化としてポジティブな好感を持つ印象を受けます。
一方で、病はネガティブ、陰、とされますが、同じ文化、土地の暮らしの中にあるものです。印象の問題から、排除され、触れぬが仏のように扱われる現実も事実でしょうし、常のでしょう。
だからと言って強調して声高に被害を訴えたいわけではありません。
だけど、面倒だからと触れずに排除した民俗"文化"を声高に強調しようとも思いません。

でもまずは難しいことは考えず、ここに流れてきた時間と、相手の言葉のそのままを受け取りたい。
次はどんなこと、どんな人に遭遇できるか。楽しみです。

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