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今の学びが楽しいのは、三年後の自分から手紙が一方的に送られてきたおかげです。

  • 第十話

 六月、ネガ子はリハビリのため近所のスポーツクラブへ入会した。
 頚椎椎間板ヘルニアに、長時間同じ姿勢でいることは大敵だからだ。
 主治医に勧められるまま始めたスイミングだが、ネガ子は週二回のレッスンを楽しめるようになっていた。スイミングは小学六年の授業以来なので、子ども時代に戻った気分になる日もあった。
 息継ぎは初心者レベルから一向に抜け出せずにいたが。

 レッスン後の大浴場は自宅の浴槽と比べ物にならないほど開放的で、浸かるたびに心の泥を洗い流した気分になっていた。
 六月が終わるころには、ネガ子も学びと自らの生き方と向き合う姿勢が真摯になっていた。
 また、ネガ子は社会人でも入学のハードルが低い大学を探すようになっていた。ネガ子は高卒で、当時は薬学部を志望していた。しかし諸事情があり断念、仕事も無関係の道へ進んだ。
 今でも科学や医療には興味があり、可能な範囲で情報を収集している。それでも薬学部に行きたいという気持ちは湧かない。
 当時薬学部に進学したかった動機には、純粋な気持ちだけではなく、泥がへばりつくような事情もあったからだ。
 それに、ネガ子の代から薬学部は四年制から六年制に切り替わった。仮にネガ子が来春薬学部に入学したとして、卒業後薬剤師として就職するのも六年後。年齢的に体力が厳しくなるころで、まったくの新しい畑に慣れる自信がなかった。
 そこまで考えてようやく、ネガ子が根っから薬剤師になりたかったわけではないと気づいた。泥を被った状態で薬剤師になっていれば、ネガ子は自ら土偶になっていた。それがどういうことなのかは、ネガ子自身が一番理解していた。

 うねるような湿気をかき分けながら帰宅すると、アパートの郵便受けにはほんのり萎びた封筒が一通入っていた。例の手紙だった。
『QRコードを読み込』
 ネガ子の、スマホの読み込み機能を起動する速度が上がっていた。スマホの照明が点いたままエナメル質のキャリーバッグに突っ込み、手早く手紙の封を切った。スマホの出番はQRコードの読み込みで終わった。
「ま、そんな都合よくいくわけない、か」

 拝啓 前向きになりつつあるネガ子ちゃん
 今日読んだ市報、どうだった? 社会人でも、資金少なめでも大学に入れる方法、分かったでしょ?
 そう、社会人特別入試制度! うまくいけば授業料が減額になるっていうシステム。ネガ子ならうまく使いこなせるんじゃないの?
 本来のアンタ、年下にも好かれる質だから、現役入学の子たちの中でもやっていけるでしょ。
 一つカギが見つかったところで、しばらくは私の手紙、発送を遅らせるね~!
 だってそうしないと、ネガ子がなーんにも考えない人になっちゃうもん。
 誰かのロボットになる人生、楽しくないでしょ?
 ということで、今後はネガ子が自分で考えて動いた後に手紙が届くようにするわ。とりあえず、自分軸で動いてみてね。

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