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今の学びが楽しいのは、三年後の自分から手紙が一方的に送られてきたおかげです。

  • 第三話

 翌日、ネガ子はいつも通り母の介護とシャワーを済ませてから仕事の準備に取り掛かった。白のカッターシャツと黒のスーツパンツ、上着にはグレーのパーカー。靴下は当然黒。仕事用の靴も黒なので、靴下だけ白だとお客様から見て違和感しかない。バッグには黒の蝶ネクタイと口紅、電源を切ったままのスマホ、折り畳みミラー。コロナ感染拡大が始まる前だったので、接客に携わる人間がマスク着用などという発想が誰にもなかった。
 母の夕食をテーブルに置くと、ネガ子はアパートの踊り場に向かった。勤務地までの交通手段は、同エリアから通勤する先輩の車。勤務地までのバス便が少なく、またネガ子のバス酔いが過度だからだ。車は運転者によっては長時間便乗してもまったく酔わない。先輩は今まで出会った人の中でも運転が非常に上手い。
 先輩がアパート前に到着する定刻まで、五分も時間があった。ネガ子は踊り場にある郵便受けを覗いた。
 あった。消印がなくQRコードの印字された封筒が。
 ネガ子は封筒を郵便受けに戻し、南京錠のナンバーロックをかけた。仕事前にわざわざ疲れてあげる理由がないからだ。休日に気が向けば読んでもいいか、と思ったところで、先輩の車が到着した。
 先輩は県内大手のホテルを定年退職した後、派遣パートとして別のホテルに移った。そこが、ネガ子が市内へ転入して最初の職場だった。
 先輩は仕事を丁寧に教えてくれるが、その世代の価値観が強く根付いている。
 残業を嫌う傾向はネガ子も好感を抱いているが、亡くなった姑や県外在住の娘の話題が出ることが多い。会ったこともない人の話をされても、ネガ子は返事に困るだけだった。もちろん先輩が気を利かせて親密さを上げようとしてくれているのは重々承知していた。
 ネガ子は以前の職場で人への警戒心が強くなった。同時に、作家として生きていきたい気持ちが強くなった。ただし、最初に作家を志した気持ちよりも泥の割合が増えたが。
 志だけではない。勤務中お客様の対応中も、同じ派遣の立場やホテル正社員として働く同僚の目が気になることで心の泥が増していた。
 とはいえ、お客様には何も責める点がない。かえって、お客様に同僚の事情に巻き込んでしまい申し訳ないとさえ思う。だから、ネガ子は好きなはずの接客業でさえ疲れる。
 同僚にとって接客は作業でしかない。早く捌くことしか考えていない。私と通勤する先輩はそう思っていない様子だが、かなりの少数派で抗うのは至難の業だ。
 自己責任でしがらみ無く仕事を楽しみたい。その一つとして作家と言う職業があるが、ネガ子は日常の疲労で筆が疎かになっていた。

 案の定、帰宅するころには両ふくらはぎが硬直し足取りも重くなった。玄関に入れば例のヘルパーの後始末が待っているのだ。料金に見合うサービスを受けられていないのに、料金は自然と発生する。
 ネガ子が雇用で働かなくて済むために、莫大な貯金額と資産が必要だ。
 金、金、金! 金さえあればネガ子が後片付けをするヘルパー派遣会社を利用せず、上ランクのサービスを受けられる。
 労働時間帯を気にせず執筆に没頭できる。金さえあれば!

 特定への執着心ばかりが募り、母にもその表情が読み取られていた。母の表情も暗くなった。決して抑制している照明のせいではない。

 ネガ子も言葉に詰まっていると、電源を切っていたはずのスマホが騒ぎ出した。
『QRコードを読み取ってください。この封書には有効期限があります』
「最近の郵便は進んでいるのねぇ」
「ンなわけないじゃん」

 ネガ子は仕方なくスマホの電源を入れて、QRコードを読み取った。
 ファンデーションが溶けた汗が、首筋を舐め降ろすように伝った。

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