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金木犀が好き

金木犀の香りが家の中まで忍んでくる日々。団地暮らしだから庭はないけれど、階段の目の前の芝生に金木犀が立っているから、秋の始まりの数日間はごくごく身近でその甘い香りを楽しむことができるのだ。

子供の頃から金木犀の香りとオレンジ色の小さな花が大好きだった。自分だけの金木犀の匂い袋を作りたくて、地面に散った金木犀を集めて乾かして、自分で縫った小さな布袋に詰めてみたこともある。悲しいかな、何年も何度も挑戦しても、乾いた小さな花たちからは香りが飛んでしまって理想の匂い袋を手に入れることはなかった。世の中には「金木犀の香り」と称される芳香剤もあるけれど、人工的なそれは求める香りから程遠い。大好きなのに決して手に入らないものがあると知ったのは金木犀のせいかもしれない。
だから年に一度、ほんの数日だけ再会できるこの季節は私にとって宝物だ。空気に秋が混ざり始めると、つい金木犀に語りかけてしまう。
いつ会える?
今年も咲いてくれる?
小さな花はなかなかの締り屋だから、花開くその時まで姿を見せてくれない。ある朝突然一斉に開いて、香りを振りまくのだ。
それから数日間、私は毎朝「おはよう、行ってきます」と声をかけて仕事に向かい、どんなに疲れて帰ってきても「ただいま」と声をかけて癒される。もちろん、職場近くでも金木犀は薫っている。でも私にとって特別なのは家の前にいる金木犀。10代の頃からずっと近くにいるから。金木犀の香りで胸を満たすと心底リラックスできるのは、相性がいいということなのだろうか?

金木犀の香りにまつわる思い出がある。
小学2年の秋のことだ。同じ方向の同級生との帰り道、金木犀が薫っていて、金木犀の匂いが好きだとか、花が小さくてかわいいねとか語り合って別れた。
私は彼女ーー弥生ちゃんーーのことが大好きだった。2年生になって初めて同じクラスになった弥生ちゃんは明るくて可愛くて優しくて、他の子が呼ぶのを聞いて、私はヤーシャと呼んでいた。ヤーシャという呼び名は外国の名前でなんて素敵なのだろう、かわいい弥生ちゃんにぴったりだと心底思っていた。
あの時の私は大好きなヤーシャが大好きな金木犀を好きだと言ったのがとても嬉しかった。ピカピカの思い出だったのだろうと思う。数日後に出た作文の宿題にその日のことを書いた。嬉々として原稿用紙に向かった自分が目に浮かぶようだ。いつも呼んでいるようにヤーシャと記し、金木犀の思い出を丁寧に書いた(はず)。そして、彼女の言葉を少しだけ捏造した。作文の全ては覚えていないが、捏造した箇所だけが忘れられない。金木犀が好きと言った私に答えるヤーシャの科白だった。
「私も好き。愛らしいもん」
小学2年の神戸育ちの女の子は「愛らしい」なんて言わなかった。私だって言わない。本当は「かわいいもん」と言ったのだ。でも私は外国の女の子の名前みたいな呼び名のかわいい女の子に「(金木犀は)愛らしい」と言わせたくなったのだ。その科白こそがその作文におけるクライマックスだった。作文自体は残っていないけれど、書き上げた時の高揚感は不思議と身体の中に残っている。
書き上げて満足していただけの私に青天の霹靂が訪れた。好きをぶつけた文章だけに出来が良かったのだろうか。担任の先生に指名され、朗読することになったのである。よくは覚えていないけれど、好きな人と好きな木のことを書いていい気持ちだったのだから、きっと嬉しそうに読み上げたに違いない。
次の休み時間、私はヤーシャと彼女の幼稚園時代からの同級生に囲まれた。ヤーシャは怒ったような、恥ずかしがっているような顔をしていた。
「私、愛らしいなんて言うてへん!」
なんと答えたか、謝ったのか、全く記憶にない。ただ、「あ、やっちまったな」と言うような感情が湧いてきた感覚が残っている。わかってて書いたのだから責められても傷つかないというか、甘んじて責めを受けるとでもいうか、ダメージは全くなかった。
ヤーシャの言葉を皮切りに他の子が口々に私を責めた。作文でウソを書いたらあかんとか、そう言ったことを言われたような気がするが、ここも私にはどうでもいいことだった。屁でもなかった。それが一転したのは取り巻きの1人の最後の言葉だった。

「あのな、ヤーシャちゃうで、この子はやーしゃん!!」

ウソやん、外国の名前やないやん。
めっちゃ関西やん。

思い描いていた素敵な世界が綻びた。そんな気持ちだった。ウソを書くなとか、そんなことは本当にどうでもよかった。可愛くて明るくて外国の名前の女の子が素敵な世界から消えてしまった、このことだけが私に衝撃を与えたーーこの世界にヤーシャが存在しない、だと?

その後、作文がきっかけでハブられることもなく、穏やかに2年生の時代は過ぎたと思う。というか、2年生の時の最大の事件がこれなので、他の記憶がほぼない。ショックだったのはヤーシャがやーしゃんだったことだけだから、同級生のことを怖いと思うこともなかったし、作文も嫌いにならなかった。不登校にもならなかった。ヤーシャのこともずっと好きだったし、金木犀の匂いも大好きなままだ。
ただ、好きな花の香りを年中嗅ぐことは不可能だということと勘違いや思い込みで他人と揉めることがあるという現実を知った。それだけのことだった。
ひとつはっきり感じるのは、自分だけの想像の世界はそんなことでは壊れなかったということ。少なくともあの日の私は責められたことには動じなかった。事実を物語に変えた自覚があったからだろうか。3月生まれの私は他の子より幼くてとろくて、あとから思えばいじめられたこともあったような気もするけれど、想像することで自分の城を持ち、自分を護っていたのかもしれない。もしかしたら、今の私よりも心が強かったのかもしれない。幼さ故かもしれないけれど。
金木犀の優しい香りはついつい自信をなくして、惑ってしまう私に、あの頃の私を思い出させてもくれる。背中を押してくれる香りと言っていいかもしれない。
金木犀の花言葉を調べてみた。「謙虚」「謙遜」「気高い人」「真実」が有名どころ。他に「誘惑」「陶酔」「初恋」だそうだ。私の思い出は「自己陶酔」かな!?


今朝もまだ金木犀は花を咲かせ、香りを漂わせている。
今日も一日がんばろう。

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