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【経済史】日本金融危機(1997‐1998)

【概要】
バブル経済の崩壊を機に始まった不況は日本の金融危機にまで発展しました。1990年代初頭にバブルが崩壊すると、不動産や株式の価格が急落し、多くの企業や個人が莫大な損失を被りました。

この崩壊は金融機関にも深刻な影響を与えました。バブル期に膨張した資産価格を担保に多額の融資を行っていた銀行や証券会社は、資産価格の急落によって多くの不良債権を抱えることとなりました。不良債権問題は金融システム全体の不安定化を招き、多くの金融機関が経営破綻に追い込まれました。1990年代の金融危機は、日本経済に長期にわたる低迷をもたらしました。

【詳細】
1985年のプラザ合意を契機に深刻化した円高不況から脱却するため、政府と日銀はいくつかの支援策を導入しました。まず、日銀が公定歩合を5%から2.5%まで段階的に引き下げる金融緩和策を実施し、低金利政策によって民間企業の投資を促しました。政府は法人税と個人所得税を減税して消費を喚起しました。日本は恒常的な貿易黒字を背景に、過剰流動性と呼ばれる金余りの状況でした。そこに低金利と減税による資金が供給されて、不動産市場や株式市場に流れ込み、バブルが発生しました。

また、企業の資金調達が、間接金融である銀行融資メインから直接金融である株式・債券発行メインへと移行したことも、日本の金余りに拍車を掛けました。代表的な例が米ドル建てやスイス・フラン建てで発行されたワラント債(新株予約権付社債)でした。企業は、ワラント債などで調達した資金を本業ではなく、営業特金(特定金銭信託)やファンドトラストを使って運用に回しました。これがいわゆる「財テク」と呼ばれたものでした。証券会社や信託銀行が運用を担当して、主として株式市場等で運用しました。預金獲得競争は過熱し、運用利回り保証や損をした場合の損失補てんの約束という違法行為が横行するなど、血で血を洗う争いとなっていきました。

一方、不動産市場にも資金が流れ込みました。土地の値段は下がらないという土地神話が生まれ、山の手線内の土地の価格でアメリカ全土が買えるといった何の根拠も無い俗説がまかり通りました。バブル景気時に、日経平均株価は1989年12月に38,915円の最高値を記録しました。この時期の株高を象徴する出来事としてNTT株があります。1987年2月に上場されたNTT株は約3ヵ月で2倍に上昇しました。PERは300倍を超えていました。またこの期間に東京や大阪などの6大都市の商業地はわずか5年で5倍になりました。

日銀は過熱する景気とインフレ抑制のために1989年5月-1990年8月の間に5回の利上げを行い公定歩合を2.5%から6%まで一気に引き上げました。1990年に入って、それまで上昇を続けていた日本株が下落を始めました。1990年3月に大蔵省(現在の財務省と金融庁)は、「土地関連融資の抑制について(総量規制)」という行政指導を行い、金融機関の不動産向け融資を制限しました。更に土地取引の届け出制、地価税の新設、固定資産税の課税強化など矢継ぎ早に対策を繰り出しました。このような金融引き締めの結果、日経平均株価は1990年10月に20,000円台ギリギリまで下落しました。地価も同様に1990年の後半から下落に転じ、1993年の全国の商業地の地価は2ケタの下落となりました。バブルは崩壊し始めたのです。

バブル崩壊で株価は大きく下落し、財テクに走っていた企業に巨額の損失が発生しました。そして企業破綻が増加していきました。また、地価下落によって、不動産を担保としていた銀行融資に担保割れが生じました。これらによって差し押さえられた不動産が売却され、更に不動産市場に価格下落圧力がかかり、更なる差し押さえを呼ぶという負のスパイラルに入りました。

銀行が回収見込みで資産計上していた債権が全額回収できなくなった場合、その債権を不良債権と呼びます。バブル崩壊後でもなお、いずれ株価や地価も回復するだろうとの甘い期待から不良債権処理が遅れ、不良債権は雪だるま式に増えていきました。また、営業特金を獲得するために顧客に利回り保証をした結果、下落した株式を引き取らざるを得なくなった金融機関も存在しました。

本来ならば不良債権を時価評価して、引当金を積む必要がある場合でも、決算期をまたいで一時的に損失を子会社などに隠蔽するいわゆる「飛ばし」を行う金融機関もありました。

1991年には、小規模の金融機関が破綻し始めました。1992年夏には、当時の宮沢首相が株価や不動産価格の急速な下落を懸念して、金融機関に対する公的資金の投入を提案しましたが、金融界自身の反発で実現しませんでした。1993年には、金融界主導で公的資金を用いない不良債権買取会社が設立されましたが、実質的には買取は進まず、銀行の不良債権は増加の一途を辿りました。

1995ー96年にかけて日本の景気は一時的に持ち直しました。当時、銀行は株式の持ち合いで株式保有比率は高水準でした。不良債権の損失を株式売却の利益で少しずつ穴埋めするという悠長な対応をしていました。しかし、1997年にアジア通貨危機が勃発。煽りを受けた日本経済は急速に落ち込み、秋以降、日本の金融危機はクライマックスを迎えました。1997年以降には、邦銀の外貨資金調達に対して、通常の金利に上乗せの金利が乗る「ジャパン・プレミアム」が発生していました。1995年に大和銀行(現りそな銀行)ニューヨーク支店で発生した米国債の巨額損失事件をきっかけに発生した上乗せ金利であり、日本の金融危機が本格化した1997年以降急拡大しました。信用力の劣る銀行では上乗せ幅が1%を超えていました。ドル高による外貨資金調達コストの高まりに加えて、ジャパンプレミアムは一層邦銀の外貨資金調達を困難にしました。

1997年から1998年にかけて、大手証券会社や銀行が相次いで破綻しました。北海道拓殖銀行は、地価の上昇を見込んで実際の土地評価額を上回る過大な融資を繰り返し、地価下落後の回収も思い通りにならなかった結果、1997年11月に経営破綻しました。これが大手銀行である都市銀行の、戦後初の破綻銀行となりました。

山一證券は4大証券の一画を占めていましたが、法令違反の運用利回り保証や損失補填をしていました。また、これらを簿外債務として「飛ばし」で隠蔽し粉飾決算を行っていました。

1997年11月に簿外債務の存在をメインバンクである富士銀行(現みずほ銀行)に明らかにして支援を求めたものの、2,500億円を超える簿外債務の1割程度しか支援できないとの回答を受けました。また、不正利益供与と粉飾決算が悪質と判断され、日銀からの特別融資も認められませんでした。最終的に大蔵省に簿外債務の存在を報告した結果、事業の存続は認められず自主廃業となりました。

この時期には、準大手証券の三洋証券も1997年11月に破綻しました。1988年、バブルの最中に、同社は世界最大級のまるで巨大な体育館のようなディーリングルームを江東区塩浜に建設。拡大路線をとっていましたが、90年代半ばには経営悪化に改善の糸口もなく身動きがとれない状況になっていました。自己資本比率は劣後ローンを含めても200%を割り込み低下が止まりませんでした。劣後ローンの借り換え、債務返済の目途が立たず、ついに1997年11月3日に会社更生法の適用を申請しました。

大手銀行である長期信用銀行の破綻も相次ぎました。日本では都市銀行が短期の融資を行い、長期信用銀行は長期の融資を担当するという金融の長短分離政策が長く続いていました。日本が高度経済成長の時代には、この長短分離がうまく機能していましたが、安定成長からバブル景気の頃には長期の融資のニーズが減少し、また企業も例えばワラント債の発行といった直接金融に移行が進んだことから、長期信用銀行は資金の運用先に悩むようになりました。

バブル期に日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行(日債銀)の2行は、不動産担保の融資にのめりこんだ結果、不良債権に悩まされることとなりました。長銀は、1998年3月の決算時に不良債権を少なく計上する粉飾決算を行い、その後外資系や日本の銀行との合併を模索しましたが実りませんでした。結局、10月に金融再生法と早期健全化法の制定を受けて破綻処理され、一時国有化を通じて最終的には新生銀行として再スタートを切りました。日債銀は、12月の金融庁検査で債務超過と認定され、国有化を通じてあおぞら銀行として再スタートを切りました。

〈まとめ〉
日本の金融危機はバブル崩壊による不良債権問題が主因にあると言えます。一方で、ドル高が遠因となって発生したアジア通貨危機、それが連鎖したロシア危機・LTCM破綻による世界経済の混乱の悪影響をもろに受け一層深刻化した面もあります。強すぎるドルは当時世界経済で最も脆い場所を崩壊させ、その負の衝撃は次に脆い場所へどんどん波及していきました。



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