恵まれて不満で当事者意識がなく苦しんでいる

やりたいことをやっているタイプの人たちの話を聞きに行って、パッと見は普通に若くて今っぽいおしゃれをしている女の子たちなんだけど、そういうほかの似たような女の子たちが軒並みうっすらと不満を抱えながらも自分では何もしようとしないのと、実際にいろいろやっている彼女たちと、一体何が違うのかなあ、なんてことをつらつらと考えていた。

何が違うのだろう。

周りの理解だろうか。
サポート体制だろうか。
それとも、本人の資質なのか。

いろいろと思って質問したりもしたけれど、やれている彼女たちもそんなに何かを頑張ってやっているわけではないという。

じゃあ余計、なにが違うのか。
私の知っている不満を抱えて主体性がなくぼんやりと流されているが、それに焦りもありつつ何もしないタイプと、いろいろできている彼女たちに大きな差があるようにも思えなかった。
どちらも、大学を出て、それなりの頭脳があり、時に機嫌が悪い時もあれば変にこだわりが強くて周りと軋轢を生むこともあるようだった。
なのに、なぜ。

その違いは、実際にやれている人たちにもわからないらしいけれど、「自分が言いたいことを唯一わかってくれている存在がいるという救いがあった(例えば友達とか)」ということと、「失敗ってことがあんまりわかってなくて……流されていてもそれが面白いとか楽しいって感じはあったかも」というところがなんとなくひっかかった。

実際に行動できている人と、実際に行動できていない人の違いは、恐れなのかも。
行動できていない人は、恐れすぎている。

不満ばっかり言って、何もせず、当事者意識が全くなくて、常にお客さんでいるタイプ(だけど文句が多いし、文句を言うとかクレームをつけることがコミュニケーションだと思っている節がちょっとあるので結局主体性のある人たちに嫌われるルートをたどりがち)は、不満なんじゃなくて怖いだけなのかも。

ものすごく怖いのかも。

でも、彼女たちはとても恵まれている環境にいることが結構多い。
いや、たまに「それは明らかな虐待で、もう40歳を過ぎても親に縛り付けられて暮らしていること自体、相当厳しいよね……最低賃金だし……」みたいなこともあるけれど、それはそれで過酷な環境にあって不満が生まれるのはわかる。というか、ちゃんとそこに不満や怒りを持ってほしい、くらいに思うし、代わりに怒りたくもなるような気持ちにもなる。
が、そうではなく、安穏と暮らしてお金だって相応にあって、親も元気で大事にされているのに、不満で文句が多くて、主体性がなく、当事者意識がないので常に何かにいっちょ噛みして上から目線でアドバイスしちゃうけどそれじゃダメだと薄々わかっているから挙動がおかしい、みたいな人たち。
彼女たちは、どうしてそうなったのだろうと常に疑問であるし、なんなら私が出会うほとんどの人は、私から選んだ相手以外は大体そういう感じがしている。

主体性のなさ。
それは、単純に主体性を奪われているということだと思う。
そして、主体性を奪われていることに気づいてもいない。

主体性のない状態のまま、なんとなくイケてる感じに垢抜けたいし、ライフハックしたいし、おしゃれだと思われたい。
主体性がないから、外からの評価を完璧にすることに執着する。
でも主体性のなさと当事者意識の欠如はニコイチみたいなことろもあるので、常に自分が他人みたいになる。

そして、みんな、苦しんでいる。

なんにもわかってなくて、垢抜けたい痩せたいと爆走しているうちはまだいい。それが苦しみゆえだとわかると、もう手に負えない。
そして、傷ついている人だからといって、ルールを逸脱するものに対しては社会は容赦がないし、それがだんだん激化している。

激化するルールを追う事が、今度はメインコンテンツになっていく。

そうやって、彼女たちは常にとても恵まれているのに常に不満。
そして、とても苦しんでいることを恵まれていることでマスキングしている。

ちゃんと苦しんだ方が救いは早いと思う。
が、救われるには時間がかかる。
苦しい、痛い、つらいって思う時間がある程度発生してしまう。

そして、人は苦しむことを恐れている。
でも、それは過保護にされて育った人たちが「自分が苦しむと親が自分の子育てを失敗したと感じるので、子供として責任を感じるから私は苦しんではいけない、親のために」みたいな思考回路に陥って、苦しむことに及び腰になっているパターンは結構あるなと思っている。

苦しむ自由も与えてもらえなかった、大事な子供たち。

それが、ふやふやにふやけた感じで、色白の美白な若者たちに育っていく。みんなかわいくてきれいで、マナーがちゃんとしていておしゃれで、そして「健康になりたい」って言っている。

彼らの気持ちや声、言葉、感情、感覚は、極めて軽く扱われている。
だって、つまらないし。未熟でバカみたいなことしか言わないし。
おしゃれだけど、買ってきたおしゃれだから、まあ、そうでしょうねって感じでしかない。買ってきたおしゃれでドヤれるのも、仲間内だけだから、仲間内で認め合っていればいいようにも思うけれど、どうも苦しんでいる人たちは、そもそも「認め合う」相手がいないらしい。

主体性の欠如。
当事者意識の欠如。
過剰な恐れと、失敗の回避。
そして、理解者の欠如。

彼らの上滑りの理由。

悩む理由合がひとつも見当たらない状況で悩んで泣いている人たちを見ていると、「貴族みたいだね!」「こんな国力ダダ弱りの日本に貴族ばっかりいる」みたいな話になるわけですが、彼らの苦しみはこの国の病巣にも思えるくらい量が大きい。

で、そういう苦しみばっかり見てきたので、私はウンザリしているところはあるんですが、成功している人たちというか、生きたいように生きている(もちろん悩みも苦労も山ほどあるし不満もあるのだけど)人たちの生きざまや成果をもっともっと見に行かないといけないなと反省したりもしている。

成功はいろんな道があるが、失敗は大体決まっているという。
私の知っている「失敗した人生」は、能力のなさでも運のなさでもなく、当事者意識と主体性の欠如だと思う。
これを取り戻すのがどれほどきついかは、わからなくもない。
易きに流される方が生きやすい。
生きやすいが、それは殺されないということであって、過酷な生き方である。あきらめや、折り合いをつける技術が高い人はまだいいが、そこまでできない人は世を憎む。世を憎んではいけないと教育されている人は、自分を憎む。
苦しむ。
そしてその苦しみが、結果としてまた世の中に出回って、うっすらと世の中が生きにくくなり、また次の生きにくく不満気な人たちが生まれ育っていく。

そういう苦しみの処理係として、私は存在しているふしが、うっすらある。
そんなつもりじゃなかったのになあ。

でも、だんだんと彼らの苦しみの理由がわかってきて、もちろん個別の状況なのでひとくくりにはできないけれど、謎に意味の分からない苦しみをぶつけられる理由もなんとなく察しがつくようになった。
で、やっと、なんとか、私もゼロ地点に戻ってきたような感じがする。

他人の謎の苦しみを散々見てきて、しかもそれらは当人たちにとっては非常に重要な問題のようだけど、他人から見ると実に実体のない虚無でしかないので、まったく訳が分からなかった。
が、虚無を大量に食べると、まあまあ虚無の見分けもつくようになる。利き酒のように利き虚無ができる。

「いつか虚無に食われるんじゃないの」と友達たちは冷たい口調で言っているが、私もある程度そう思うと同時に、虚無でさえある程度見ればわかるようになるもんなんだな、という不思議な感覚もある。

主体性がなく、当事者意識もなくて、常に不満で、環境には恵まれている人たちの悩みは、実に深くて毒性が高い。無味無臭の毒。でも毒だから、すぐにわかる。

彼らはもうすぐ死ぬが、環境のよさで死ぬこともできない。
ギリシャ神話などにある不死のせいで死ぬほどの痛みを与えられるのに死ねないからずっと苦しい、みたいな、そういう居場所のない生き方。

なんかそういうのを持ってこられて、えって言いながら右往左往してばかりいたけれど、なんとなく大まかな整理がついてきたなという感じがある。

つよく生きていきたい。