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香港とサンフランシスコ

幼い頃、従姉妹たちは海外にいた。
香港と、サンフランシスコ。
なので、インターネットもない、電話も市内と市外とでは通話料が違う時代、私はただ「外国にいとこがいる」という事だけを聞かされていた。
それがどういう事だかは、わかっていなかった。

私は家族との縁が薄いので、そのすべての従妹たちとの連絡方法もないし、どこで何をしているかも知らない。

サンフランシスコにいた姉妹は、向こうで現地の青年と結婚したらしい。
三姉妹だったはずだけど、なぜか途中で祖母は姉妹たちの消息について私が聞くことを叱責するようになった。一番上の子の結婚の話は聞いたが、妹たちはどうなったかわからない。
離婚か、あるいは死んでしまったのではないかと思っている。
(祖母は自殺や離婚を大変不名誉なこと、極めて恥ずかしい事だと思っていたようだし、それを子供に説明するのは絶対にやってはいけないので子供を叩いて黙らせるようなタイプで、私を叱責した時はそういう態度だった。とにかく隠そうとするので、私は黙って知らないふりをした)

香港にいた三姉妹も、よくわからない。
ただ、長女は、なぜか高校の時に日本に戻ってきて、同じ高校に通っていた。
やる気がなく入学した学校で「yuukeeちゃん?」と知らない髪の長い女の子に声をかけられ、同じ苗字を告げられた時はびっくりした。
私の家の苗字は、あたりきの感じの組み合わせだけど、意外と少ない名前だからだ。
「Kちゃん?K子ちゃんなの?香港にいたんじゃなかったの?」
「うん。うち、お父さんたち離婚してさ」
「えっ」
「わたしだけ日本に来たんだよね、お父さんのほうについてきて」
私たちは、父親同士が兄弟だった。
母親である祖母は、息子が離婚したことが非常に恥ずかしい事だと思っていたのだろう。

顔もすっかり忘れていた従姉妹と田舎の高校で突然出会い、私は「ねえ、香港では何語をしゃべってたの?」と聞いていた。
家では日本語で、ピアノの先生は英語で、買い物は中国語だといっていた。
彼女は返還前の香港で生活していたのだ。
家には、香港土産のタイガーバームがいくつも転がっていた。

その後、私は実家の借金で大学に進学することもなく、家庭内暴力の荒れる家の中でやせ細ることになり、彼女がどこに行ったのかはよく知らないが、何かの時に一度会って、北京の大学にいったという事を言っていて、その時も「北京って寒いんでしょう?」という事を聞いた記憶だけがうっすらある。
「よく羊を食べる」という答えを聞いた覚えもうっすらある。
特別仲良くなったわけでもなかった。彼女がどこに住んでいたかも覚えていない。

たぶん、もういとこたちにあっても顔もわからない。
というか、妹や弟の事ももうわからない。

サンフランシスコは、いったこともないので、映画などで見るくらいだ。
刑事ナッシュ・ブリッジスとか。坂道が多いらしい。タクシーを路面電車に坂から落としてぶつけないといけないらしい。

子供の頃、世界地図の存在を知らず、アメリカも中国も知らなかった。
日本と香港とサンフランシスコ。
私は、犬と子供にしか名前はないと思っていて、大人にもそれぞれ名前があると知ってすごく驚いて、家族全員の名前を聞き出し(両親と祖父母の4人分)、ティッシュの箱に名前を書きまくった。お父さんとかおじさんとか、〇〇のおじちゃんとか、そういうのが大人で、まさか名前が個別についているなんて思わなかったのだ。
そんなふうに、香港とサンフランシスコという『がいこく』があるという認識だった。
そこは、遠くて、会うことができないが、そこには血のつながった従姉妹がいて、その名前と年齢を何度かチラシの裏に書いた。顔も知らないが、自分と同じような女の子がいて、彼女たちは年下の従姉妹で、何の疑問もなく私たちは仲良しだと思っていた。

実際には、通りすがりの他人よりも遠い存在だとわかるようになったのは、ずっと後の話だ。
会う事もなく、顔も知らない人間が、たとえ血がつながっているというだけで仲良くなれるなんてことはないのだ。

ただ、あの頃は幼かった。
なにもかもが境界を曖昧にしていて、年の近い子供は仲がいいと決められていた。それに従っていた。

香港とサンフランシスコは、今でも私の中で独特の存在感である。
それは現実の地名ではなく、はじめて与えられた情報が間違っていたことに気づくまで形成された、ダミーの存在。

生まれた時から家にあった茄子の絵のついた皿が、ずっと何の絵かわからなかった。赤子は絵を理解できない。
それが「茄子の絵」だとわかった時の衝撃はすごかった。
私はずっと見ていた。生まれた時から十数年に渡って、毎日。なのにそれが茄子だとわからなかったのだ。

それが茄子だとわかった後、それでも茄子だとわからなかった感覚も同居して、世界が二重になったような気がした。

人生の最初に無下に与えられたカードは、いつどのようにその効力を発揮するかわからない。
誰もが爆弾を抱えているのだろう。
それを「幼児教育」といって素晴らしいギフトに変えたいと願っている大人たちもたくさんいるが、それは私の香港やサンフランシスコや、茄子の皿みたいなものかもしれない。
それがよい方向に働くか、あるいはその逆か、そんなものはわからない。
この世は呪いと恨みに満ちている。自分が愛情として与えたものが、最終的には子供を不幸にすることだって山ほどある。

その「人生初期に握らされた爆弾」が、さまざまな経験によってうまく起爆したり、あるいは被害を回避したり、いろんなことがあるのだろう。

この世界にはない香港とサンフランシスコと、消えた従妹たちと、私はもう二度と会いたくもない妹と弟。
全員が、どこかで無関係に生きていければいいと思う。
なまじ血がつながっているから関係性を保たなくてはいけないなんて、私は遠慮したい。

すべてが無関係になり、並行してそれぞれが自由に、適当に生きていければいいと思う。
香港とサンフランシスコと東京くらい遠くに。

私たちの通っていた高校は、いつの間にか消滅していたらしい。
甲子園でまさかの地元校が勝ち進んで、その時に母校は周辺の高校と一体化する形で消滅したと知った。

世界は知らない事ばかりだし、知らなくてもいいことばかりだ。

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つよく生きていきたい。