「配慮としての」現代アート
なぜか友人たちは美大出身の人が多い。
私は別に自分がアーティストになろうと思ったことはない。
作家にはなりたかったけど。
美術館や展覧会は好きだけど、見るのが好きなだけ。
時代背景の勉強とか、あんまりしない。見るのが好きなのです。
現代アートやデザインについても、それぞれ大変熱心な愛好家やデザイン職にある人がFacebook友達にはちらほらいるけれど、私自身はデザイン大好きっ子の気持ちはよくわからない。なぜかデザイン関係はセンスで人をマウントしたり優劣を競ったりしたがる人が多い気がするので、なんでそんな事でマウントできると思ってんのか不思議だわーくらいの感じ。
もちろん、現代アートなどの面白い見方やエッジーな展示は面白いと思うし見にいく事もあるし、ビジネス的にアート市場というものがあるというのも知ってはいる。雑誌で立ち読みした程度に。
自分で個展を開催しても、どちらかというとポップアップショップという面が強くて、ビジネスとして必要とされるからという感じでやっている意味合いがとても強い。
けれど、急にアートの展示会をしようと思いたった。
現代に生きている人間としてアートに取り組むなら、おのずと現代アートではあるのだけれど、あえて「現代アート」と銘打ってやろうと思っている。
なぜか。
みんな自分の感性や常識で理解できない事を提示された時に丸く収めるために「現代アートっぽいね」って言い過ぎてませんか!!!
この自分の理解をこえた存在ながら、特に社会的に問題でも自分に危害を加える事もない相手を現代アートという枠に押し込んで受け入れようとする問題をデスね!!!
略して現代アートっぽいよね問題と言いましょうか!!
これが、あまりに頻発したわけです。
という事は、いま私たちが作っているものや「これいいよね」というアイディアのものは、確かに常識の文脈からは大きく外れているので、簡単には受け入れてもらえないのだ。
(という事がわかった)
必要とする人に届くためには、より多くの人に伝わるものでなくてはいけない。そこには複雑なものはそぐわない。
懇切丁寧なディスクレーマー(免責注意事項を記載する事)等をつけなくてはいけなくなる。
だったらもうそのディスクレーマー、「これは現代アートです」でよくない?
大人のおもちゃについている「ジョークグッズです」みたいに。
(なんですかそのジョークグッズって)
別に現代アートをやるつもりはない。でも、それが受け手に取って心的ハードルを下げて理解を助けるものになるのなら、配慮として現代アートの体裁を取るのがむしろ正しくないか?
カスタマーズファーストの精神ですよ。
顧客第一主義ですよ。それがいきつく結果が、現代アートですよ!!
なんなのこのウロボロス構造。
※ウロボロスとは、自分の尾を飲み込む蛇の図案。古代から死と再生のシンボルとして広い地域で確認されている
つまりそれだけ現代アートというのは記号として社会の中でこなれてきている段階であるという事でもあるし、それだけ薄っぺらい意味合いに使われてしまうという事でもある。
むしろ、その現象のほうが私にとっては面白く見えるのです。
見る人や購入者への配慮としての現代アート。
作っているものは、真珠やダイヤモンド、ゴールドやプラチナを使ったもので、宝飾品のカテゴリに入ると思います。
ダイヤモンドの輝きの美しさを楽しむために、指輪じゃなくてダイヤのついたお箸でごはん食べたいなって思った、その気持ちをそのまま商品化する事ができるのですが、ほとんどの人がそこで後ずさります。
なぜあとずさるのか。
高級品を日常に取り入れる事をこれほど多くのメディアが(広告でもあるが)提案しているというのに、実際にカジュアルにダイヤモンドと触れ合う機会を提示されるとドン引きする、その精神構造について、とても面白いと思ったのです。
おそらく、それは「不釣り合い」というのが一番の理由でしょう。
婚約指輪が30万円であのダイヤモンド、とか思うと、それを毎日のお箸につけるとか意味が分からないとなるのでしょう。
あるいは、ダイヤモンドをいくつもお持ちの経済的にも基盤のある方は、そんなところにダイヤをつけるなんてみっともないとか、ダイヤが可哀想みたいな発想になることも想像されます。
どっちにせよ、「おかしい」「あってはならない」ことです。
なぜならそれは「富の象徴的存在」だから。
でも、ダイヤモンドのついたお箸は、倫理道徳に反しているでしょうか?
誰かを傷つけたり、社会的に問題になる行動でしょうか?
「いいえ」
でもそれは許せないという人があまりに多いのです。
その心の強烈な揺れを、「これは現代アートなんです」と一言添えるだけで、少し冷静に向き合ってもらえるようになります。
そう、だから
だから「配慮としての現代アート」なわけです。
ああもう、めんどくさいな!
「誰が何と言おうと、自分が好きならそれでいいんです。でもそれができない人のほうが多い」
今回ジュエリー製作と監修をする作家さんはよくいっています。
誰に迷惑をかけるわけでもない。
確かに安い買い物ではないけれど、誰かに騙されたわけでも、誰かを陥れようとして手に入れるわけでもない。人にとがめられる要素は全くない。
分不相応な金額だとしても一生懸命働いてお金を作ることができるなら、問題ない事なのです。
でも周りからは「なんでそんなの買ったの」と心配という意味合いの叱責を受けたり、他の人が「今はそういうのじゃなくて、こっちが流行りでおしゃれ」というとそっちに自分の判断が流れて買ったことを後悔したり……。
自分の心を自分のものにだけしておくことは、とても難しい。
ジュエリーには、そういう人の心の揺らぎをものすごくクローズアップする力があって、それはやはり高額であるという事が大きな理由じゃないかと思います。富そのものだからです。
富に対する畏怖という、原始的な心情が動くものなのです。
そして金銭によって自分がいかに振り回されているかということを思い出す羽目にもなります。
この商品のシリーズは指輪やネックレスでさえなく、ダイヤのついたお箸とか、K18の耳かきとか、プラチナのヘアピンとかの日用品が多くなります。どう考えてもたくさん売れそうにはありません。
とっても便利で誰でも使える日用品なのに。
なので、販売する予定もなかったのですが、「あるいは現代アートというディスクレーマーをつければ、それはひとつのブランドとして販売できる商品になるのではないか?」という目算も見えてきました。
顧客第一主義による配慮によって、それは商品として向き合ってもらえる可能性を広げたのです!!!
なんという皮肉。
この作品群は、「富は民主化するのだろうか?」というテーマが裏にあります。そして、富裕層と庶民層の価値観の違いを最も浮き上がらせる宝飾というアイテムなのに、両方が同じ意見を言うのです、「彼女はお金の使い方を間違えている」と。どちらも富の持つ畏怖に基づいて。
しかし、それを使っている彼女は、ダイヤの美しさを楽しみ、それを使う事にとても満足しています。富の持つ畏怖を、愛しているのです。
皆、同じ心を持っているのに、それぞれの生活は全く違います。
「たとえ愚かに見える行為でも、他人の幸せを侵害する権利はあるのか?」
「自分の中にも、自分の常識を超えてでもダイヤのついたお箸をもってみたいという気持ちはないか?」
このダイヤのついたお箸は、購入できます。
あるいは、会場でカップ焼きそばを食べる事ができます。ダイヤの箸で。
その体験は、あなたにとって、何をもたらしますか。
富の畏怖を、見ないふりをしますか。どうということもないといいますか。それとも妙にテンションが高くなり褒め称えますか。あるいは、この感覚がとっても欲しかった、と懐かしく思うのでしょうか。
だれも、それを責めません。
あなたの感じた事は、あなたにとって正しいのだから。
それと同じように、その感覚は他の人にもあるのです。
自分の常識に沿わないからと弾劾する行動にどんな意味や結果が待っているのか。そこにも正解はありません。
高額だから購入するのをとどまる。それも良いでしょう。
高額でも、ほしい。だから買う。
それも、なにひとつ間違ってはいません。
そうやって……
そうやって、やっと、やっと長い道のりを経て、この商品は、必要とされる人に正しく迎え入れられるのです。
ただダイヤモンドがついているというだけで。
大珠真珠がついているというだけで。黄金でできているというだけで。
なんて皮肉なんだろう。
すべての商品(貴金属類)は購入できる準備をするつもりです。
個展会場で販売は無理かもしれませんがその場でオンラインショップ購入ができるようにQRコードでも配置しておきましょう。
購入してから始めて、この作品の意味が動き出します。
販売手法として現代アートの体裁を取る、というのは、現代アートに対しても皮肉だし、商品にとっても皮肉だ。
そんなに皮肉が何重にも重なるのなら、是非ともやらなくてはいけません。
株式会社机上の空論 インスタレーション
ジュエリー展「彼女はお金の使い方を間違えている」
来年、夏頃に開催できたらと思っています。
ギャラリーなどをおさえるのに資金がとても必要なので、クラウドファンディングに挑戦しようかなと思います。
リターンは、ダイヤモンドを一粒贈ろうと思っています(本当)。
真珠でもいいですよ。
年明けに、真珠養殖の職人さんのところに行ってきます。
離島です。真珠の提供を(買うんですけどね)して頂けるようお願いする予定です。
その昔、彼氏に「結婚指輪はサージカルステンレスがいい」と言われたのですが金属アレルギーないのにステンレスって。そんな話をしたら、「ステンレス娘が真珠夫人に成長したのですね」と言われました。
人間は、成長するのです。
富の畏怖も身近になるほどに。
つよく生きていきたい。