不安を感じるために生きているのかもしれない

不安を感じるために生きているのかもしれない、とたまに思う。

どういう事かというと、不安を感じている時ほど人間は生きているという実感があるんじゃないか、という事だ。

不安で落ち着かな、夜も眠れない、そんなときほど、生きている実感が感じられる。もちろん苦しいのだけれど、苦しさと生きている実感は別の縮尺にある。

もちろん嬉しさや幸せ感も生きている実感になるけれど、それは不安や苦しみがあってこその喜びだったりする。ずっと幸せな人は意外にも幸せという実感はなくて、つまらないとか退屈だと言いはじめる。
ちょっとくらい不自由で不安で苦しい方が、ちょっとの快刺激が何百倍にも強い効果になっていく。
人間は、幸せの量が多い事を求めているのではなく、刺激を求めているのだから、幸せの量の多さを誇ってもなんにもならないのだ。

幸せよりも、不幸せのほうが簡単に手に入る。不安は常にどんな状態にも存在しうるので、非常にお手軽だ。
だから、不安はいつでもだれでもどこででも、手に入る素敵な刺激なのだ。

そもそも、不安も幸福も、人間には必要ないのだ。
「それが必要だ」と言われているだけの話で、なくたって全然生きていける。

不安だろうが、幸福だろうが、生活は何も変わらないのだ。

でも不安があったほうが、生きている実感はどれほど強いだろうか。
自分の存在を感じられて、自分が何かをしているような感覚があって、できないとふがいなさを感じる。ふがいないという事は、自分はもっとできるとどこかで思っているからだ。
そういう事を、身体じゅうで感じる事ができる。

不安を、望みながら、私たちは生きている。

それが人間らしい生き方なのかもしれないし、単なる無駄遣いなのかもしれないし、どうでもいい事なのかもしれない。


\イエッサーラーーーアァァァヴァアァァ/


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つよく生きていきたい。