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屋外型美術館・江之浦測候所

現代アートの雄・杉本博司の屋外型美術館、というような場所。江之浦測候所。
昨年、杉本博司展を松涛美術館で見て、タイミングが合えば行ってみたいなと思っていたのだけど、むしゃくしゃして伊東温泉に一泊した時に東京からそっちの方に行くなら通り道だなと思って、予約した。

ひなびた、という言葉を具現化したらこうなるだろうなという、人がいないわけではないが田舎で、徐々に朽ちていく途中にある場所だった。

根府川駅の見事な桜

しかし、最寄りの無人駅にシャトルバスを無料で出すし、海外からのお客さんみたいな雰囲気の人が半分弱、私が着いた時にもいかにも海外のVIPですって感じの欧米系の人たちがぞろぞろと帰路につくところのようだった。



置いてあるものすべてが、古美術や遺跡の一部だったりする。新しいものも、杉本博司の作品ということになる。


「しゃらくさい」というのが、最初の印象だった。
あれもこれも、いわくありげなものばかり。
歴史的な価値があり、古美術として何百、何千万円で取引されるようなものを、木の根元にぽんと置いてある。

しゃらくさい。

現代美術家であり、写真家であり、古美術のアートディーラーでもある杉本氏なのだから、本業の本職なんだけど、なぜかこう「しゃらくさい」。

本来、しゃらくさいって「本業でもないのに気取りやがって」みたいな意味合いになるのだけど。

1回見ただけではしゃらくさい感じばかりが立っていて、2周くらいするとだんだんこの屋外型美術館の環境に取り込まれていく。

さりげない石段はフランスの旧家から持ってきたとか、「はーん、どうせやんごとないお屋敷だったんでしょうね!」とか思っちゃうし、かといえば京都の市電の敷石とかもあって、しゃらくさいったらありゃしない。
どれもこれも、そうだよわかるよって感じがあって、わかるからむしゃくしゃする。

むしゃくしゃするのだけど、見ているうちに取り込まれる。
美しいとか、古くて価値があるとか、そういう事を何かがどんどん差し引いていく。差し引いて、差し引いて、ただそこにあるだけのものになっていく。
この感じ、「やられた」。
結局手のひらの上で転がされているではないか。
つまらない限りだ。なんて私はつまらない人間なんだろう。古墳時代の石の鳥居や織田信長が比叡山を焼き討ちにした時に燃えた跡のある石や、12世紀の生命の木のレリーフや、縄文時代の石棒や、それぞれに意味があるけど、そこに置いてあるものにはもう「そこにある」ことしか意味がない。
バカにしやがってと思うが、そうでしかなくて、でもこれをこうやって並べることに莫大なお金が必要だという事も頭ではわかっていて、それは現代という歴史の中ではごく一部の些細なルールでしかないのに、私たちはそれに囚われて生きていて日々家賃のことを考えて、なのに杉本博司はデカい金を動かしてここに石を並べてる。きれいに。とてもきれいに。

自分がバカみたいに思う。
同時に、それを一生懸命金をかけて並べている人たちについても、なんだかバカみたいに思える。
崇高さを求めるほど、俗っぽくなっていくものだが、その極まりをひとつ感じる。

ちょうど雨が降っていて、光井戸という作品がまさしく意図したように見えていた。
暗い場所にある江戸期の(本体はさらにさかのぼるらしい)井戸に、光がささるように設置されていて、雨の時は雨粒がひとつひとつ見えるというもの。小さな雨粒がぱらぱらと落ちてきて、それがはっきりと見えた。
雨を待たなければ見えない景色。

ミカン畑の手入れのための小屋に、隕石や化石をずらりと並べている。

三葉虫の手前にある黒っぽい塊が隕石。左手にある窓からも木の根元にある古いものが見えるんだけどガラスの反射で映ってない
この景色を見よ、と言わんばかりである

ちょうど、桜の最後の方の時期だった。
ぐるりと桜のトンネルを通る。動画を撮った。

この景色を作ろう、見せよう、という意図がかなりわかる低く包まれるような桜の木の仕立て方と菜の花。
まったく、子供時代の幻影だ。
桜の名所の中に家があり、菜の花畑をうたった童謡の『朧月夜』の原風景と言われている土地に育ったので。
私の幼き日々の春はすべて桜で埋まっている。
さもすべての日本人が桜に心を奪われているみたいな感じのことを言うけれど、本当に桜の中で育った人間はそこまでいないはずだとよく思う。

自負。
反感。
幼い自尊心。
歴史の中では本当に無意味な物。
でもそれらが結局積み重なって歴史になるもの。

私が初めて杉本博司作品を見たのは、本当はカルティエ展だったんだけど意識していなくて、アートバーゼルに行った時に「日本人の作品がある」くらいのニュアンスで見ていて、帰国してから「有名な海景の」ってみんなが言っているあれのあれか!という感じにつながり、松涛美術館の展示を見に行ったという流れだ。

其処此処そこここに、彼はいる。

そして、皆が見たいのはこれだ。あの海景かいけいの本物。




うやうやしくガラスケースに陳列されてこそ価値が生まれるという事を一度通過して、また野にそれを戻すというのも、人間くさい。資本の匂いもする。そして、資本に振り回されない感じもあって、それらのすべてにちょっとずつ人の嫉妬を呼ぶものがある。

嫉妬でも、人の感情を動かすというという意味では、とても強いプレッシャーがある。アートたるものそうあるべき。みたいなところまで含めて、全部がきれいに整っていてお上手で、結果としてしゃらくさい。

(しゃらくささは、やっぱりどこか本業だからという事も影響している気がする。これが旦那文化=クライアントやパトロンの筋がやっているなら、なんか納得がいくというか、わかってない人が自分なりの面白さを求めてがんばってます!というパターンだとスッと受け止められるんだけど、なにかこううまい事素人っぽい視点を全力でぶち込んでくるのにプロだから、独特のイラつきが醸し出されている気がしている)

(それだけ伝わる作品に仕上がっている結果、ただの鑑賞者に「しゃらくさい」だのなんだの言われるなんて、割に合わないもんだなと思う。でもそんなところで割にあうように、なんて思っていないだろうから、こちらも心情と感性の自由として、愚かにもしゃらくささにむしゃくしゃする)


アートの壁打ちから始まって、骨董のほうに少し意識が向いている。
本物かどうかというよりも、まだただの詩情とロマンの話なんだけれど。

私はどんどん成長していく。
すごいなと思う。
江ノ浦測候所によっても、成長していく。


それにしても、このランドスケープデザインまで含めて、という視点と、それを実行する力(財力、自治体とのネゴシエーション)がすごいなと思う。
持ち物と土地と配置について、お前も人間ならもうちょっと頑張れるだろ、という𠮟咤激励になったのも、とても資本主義的な背景のあるアートという感じで、現代的だった。
分かりやすくベタで、陳腐で、全部が超弩級の一級品。
「彼はマニエリスムの作家」と言われてとても納得した。

つよく生きていきたい。