賭けのルートを上げる

「たらればで動けない人間がビジネスやっちゃいけないよ」

と、わたしはよくいう。

ここでこれが売れたら、これだけ売れたら、ここでこうなれば、というたらればのみでビジネスは進んでいく。
特に起業時、創業時はそういうものだ。

よくビジネスプランコンテストなんてあるけど、あれは私に言わせてもらえるなら百害あって一利なしだ。
プランに価値なんてない。周りからは立派に見えるだろうけど。
(立派に見えるから金は貸してもらいやすくなるかもね!)

ビジネスは基本ギャンブルだと思う。
ただ、とても割のいいギャンブルだし、ちゃんと回収するのはそれほど難しい事ではない。
みんないきなり年商1000万円、5000万円、1億円を狙うからよくないんです。最初は年商100万円あたりから。
それができればあっという間に1000万円も可能だし、実際のところ1000万円規模の小ささよ……マッターホルンだと思っていたら高尾山だった……
それでも、まあ、そこそこの売上を作れているというのは、立派なことです。

そんな感じでつらつらとゼロ円で起業して年商1000万円に3年くらいで持って行って、ある意味堅実に積んできたんですけど、じゃあここからどうしようかなって感じだったんですよ。

賭けのルートを上げる

さて、ここでわたしがずっと悩んでいたというか、模索していた事があって、常に今の勝負(ビジネス)では堅実過ぎてリターンがなく存在するのでギリギリというのが偽らざる現状なのです。

それに不具合があるというわけではなく、わたしの持論では起業したい人は貯金しちゃダメで、ゼロからでも利益を生み出せるのが起業ってもんなので、手持ち資金を厚くする事に執着するのは本来の趣旨から大幅にずれる事なのです。だから、ゼロから叩き上げて存在が可能になってご飯食べている状態に突入しているのは第一段階成功。

しかし、それだけではビジネスは回っていきません。

ゼロから生み出されてとりあえずかろうじて生きている状態では、すぐ死んでもおかしくない訳です。

そこで次の段階として、今までめんどくさくてやりたくなかった融資を不承不承(ふしょうぶしょう)着手。
着手するまでにも半年以上モタモタしてました。
でも実際に書類をそろえて出したらあっという間だった。
小さくても実績という事だろうか。

そうやって融資というオプションで装備を増して、少しは体力をつけました。
(融資の額は小さく250万円。ちなみにもうひとつ別口の融資も最近申し込んだ)

あまりに融資を嫌がる私に会計士さんが「借りても使わなければいいんです!」と何度も言う不思議な会話を繰り返していました。
実際、借りたけれど一銭も使わずに着々と返済だけが進んでいます……
お金を動かすタイミングがもうちょっと先だという事だけなんだけど、使いもしないでただただ返済されていくのを見ていると、いったいこれは誰のカネなのかと不思議な気持ちになります。

で、まあここである程度、賭け金を手元に集める事になったわけです。
それも借りた金というリスキーな金(超低利子とはいえ)。
それを元手に、なにをするのか。

賭けのレートをあげる、という段階に入ると思う。

私はギャンブルはやらないどころか、カードゲームをはじめボードゲームもとにかくゲームとつくものは、全然できない。
ウノさえやったことがない。七並べやババ抜きで止まっている。
親がゲームをやらせない事に心血を注いでいたというのもあるけれど、もはやゲームを楽しむという感覚が薄すぎる。
ただ囚われやすい脳を持っているので、ハマるとヤバいなと自分でもわかっている。
カジノは、危険な場所だと思う。

ただギャンブルのルール自体は、まるでビジネスそのものなので、面白いなと思う。

小さくかければ、あたりも多いが小さく戻る。もちろん失う事も当然ある。
大きくかければ、当たるとデカい。が、失う事も大きい。
最初は小さく賭けて手堅く押さえていくのもいいけれど、大きく賭けて大きく勝つのがギャンブルの本筋だ。

レートを上げない者に勝利はない。
しかし、レートを上げなければ大きく負ける事もない。

「勝負は降りられる方が勝つ」

とある女性経営者の言葉だけれども、賭けのレートを上げる時にだけはそれが通用しない。

そして、たとえ使える元手があっても簡単にレートを上げる事はできない。
特に自力で切り開いたビジネスであればあるほど、普通のルートなんてないからだ。

それでもレートを上げる道

レートを上げる方法は、いくつかある。
一番簡単なのは、広告だ。
広告を打って、多くの人に認知してもらって数を出す。

とても簡単な方法だ。
やり方も手法が各種確立され、それぞれにプロがいる。

ただ、とても高い。結果はなにひとつ約束されていない。
無駄にお金だけを払う事になるかもしれない。

もうちょっと手堅くいくなら、その広告自体に価値がある作品を作る事。
広告自体でも稼げる仕組みを内包している事。
そうしたら賭けたお金が全部無になる事はない。

だけどそれは難しい事でもある。金を無駄にする方がよっぽど楽だ。

私はただただ金を無駄にしたくないから、いい商品を作りたいのかもしれない。金を失いたくないから、それを生み出すよいものを作り続ける。
本末転倒なのかもしれないけれど。

金に対するシビアさというのは、同時に金でどれほどの恐怖心を味わったかでも決まってくる。
金がなくなるだけで、父親が父親でなくなって家の中で暴れまわる状況。
金がなくなるだけで、どれほど若くきれいで頭がよくても平気で人生の幕が下りてしまう状況。
金があるだけで、人間として扱ってもらえるギャップ。
ある意味、とても平等なのだ。金で決まるのだから。

それを人生の前半戦に突き付けられ、胸をえぐられる体験をして、何もかも捨てて逃げて、それでも逃げ切れずに今度はゼロから金を作り出す勝負を死ぬ気でやって成功させて、それも丸ごと持っていかれるという体験を経て、わたしは生きていようが生きるのをやめようがどうでもいいくらいの適当な感じで生きている。

それで、
まだ、
レートを上げる勝負をするのか?

ハウツーではなく、「またその命をすり減らすような戦に身を投じるのか?」という事に二の足を踏む感じ。

それに耐えられるのか?
今度こそ折れてしまうのではないか?
という恐怖。

でもその一方で、こんな弱弱しい状態はどうせ長く続かないから絶対にどこかでレートを上げる大勝負を打ち直さないといけない事もわかっている。

どっちにしても強度のストレスがかかっている。

もう勝負から降りるという道は存在していない

気が付くと、後戻りという道はなかった。
私はいつも「綱渡りも渡り切ったらただの道」というのを標語に綱渡りを延々と続けているのだけれど、綱渡りの一番怖い事はたったひとつで、足元が揺れるとか落ちたら死ぬとかではなくて、二度と引き返せないという事なのだ。

歩くのがむずかしい道を歩く事は、歩き方の技術を問われるのではなく、もう二度と違うルートを歩けないという事。

基本的に生きるという事は何かを選び、なにかを選ばない。
そして歩ける道は一本だけ。

でも、引き返すとか、やり直すというルートがあるのが普通だ。

綱渡りは「絶対に綱が終わるまでは」引き返すことはできない。
(なので綱を短めに張るのがコツではあるんだけど)

私は綱渡りがうまい訳でも、ビビらない訳でもないが、ただただ「絶対にここからここまでなら何とかいけるだろう」というルートを見つけてはそれが綱渡りならいけるという場合にロープを張ってぶるぶる震えながら渡っている。
勇気があるのではない。
誰も助けてくれないだけだ。

そして、いい道ではなく自分の中での最短距離を選ぶ。
それがどれだけ危ない道であっても、渡り切れればいいのだ。
そこを渡るのが怖いから歩くのをやめるという選択肢はもうない。震えながら泣きながら行く。
おそらく、普通の人は「そんなに怖いなら歩けない」となるのだろう。
私は一度「これをやらないと死ぬかホームレス」な状況に突き付けられたので、自分が怖くて泣いているくらいで回避できるならなんだってやるという体験があって、自分が怖い事やストレスがかかる事なんてどうでもいい事になってしまった。
先に進めるなら、腕の一本なくなっても無問題。
そういうスタイルで20代後半からやってきたので、かなり人の道からは外れているとは思うけど、今まで頑張る機会をもらえなかったのだからここで頑張らないといけないなというのがあった。

でもいまは、そういうの全部なくて、ただ自分が幸せに生きてもいいという状況になった。

それこそが、わたしにとって最も弱点なのだと思う。
平気で腕の一本、目玉の一つを売り渡すのが私のリミッターを外すやり方だ。
魂をとっとと売り払い、人並みの幸せといううすらさぶい物を踏みつぶしているときほど、わたしは自分の力を存分に発揮して大変生き生きと楽しく美しく生きていられる。
それが「自分のしあわせ」なんて押し出した日には!
破滅ですよ、身の破滅!

後戻りできない事が怖い、なんていうようになったら、ほんと、わたしの生き方全否定。

より多くにウケるために、万人受けを目指すために、自分の強さを隠す事になってしまうというのが、わたしにとっては最も苦痛を伴い、絶望に近づく道なのだと思う。

レートを上げるには、万人受けを考える。
それが私にとって本当につらい事だった。

万人受けは存在しない

でも、それが間違っているのだと、わかった。
例えば、今のお客さんを10倍にしたいとする。それでも2万人くらいじゃないだろうか?

1億人の人口の内、2万人。
1%にもはるかにおよばない。0.02%

万人受けでさえない。

世界規模で見てみると、もう、存在しているかさえ怪しいレベル。

万人受けするメイクやファッションでモテを得ようとするとモラハラばかりを引き寄せるという。
それはもうモラハラに追従している態度だから、当然なのだ。

レートを上げようとするときに、うっかりと全世界を相手にしているような気がしてしまって、実際は本当にごくわずかな人に向けて作っているという事をすっかり忘れてしまう。

これがずっとわたしを苦しめていた原因だった。

万人受けを狙うというのは、途方もない事で、むしろ万人受けしたければ絶対にやってはいけない。

賭けのレートを上げるために、1億円をカジノに預ける?
いやいや、わたしは手元の100万円をまず1億円にするゲームに参加したいのだ。
今までの10万円を50万円にするゲームじゃなくて。
だから、最初に預ける1億円の事を心配する必要はない。
それは存在していない。

最初の一億円は、つまり万人受けという事だ。

私のゲームは、今は10万円をかけて50万円にするゲームで、それを着々とやっては勝ってきた。
素直に100万円のテーブルにいけばいいだけで、1億円を用意する必要もない。

ふつうの幸せ、なんてモノはない。
必要のない一億円だ。

それに気が付いて、やっと私は100万円を手に、新しいテーブルに向かう。
そう、100万円なら用意した。


私は私のゲームをする。
誰かのルールで動いているわけではない。

それで、次も勝ちます。

レートを上げよう。10倍で。

ここから先は

0字

¥ 180

つよく生きていきたい。