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社会に貢献できるなんて思わないこと

最近、社会に貢献することを目的とするのは、ある意味おこがましいことなのではないか、と思うようになった。

がんばらない、というのとはちょっと違う。
よりよいものを作り続けよう、それが社会において意義のあるものでありたいとは思うが、それはそれを満たさないとそもそも商売にならないからだ。
だから商売が成り立つというのは、それだけで意義のあることだ。
でも、社会に貢献しようというのは少し目的が異なる気がする。

社会には様々な価値観がある。

価値観の違いの多さが多様性で、豊かさにつながるという説があるけれど、それはあくまで大局的な視点であって、日々の細々したことは多様性があるほど混乱する。
本来、多様性は排除されるべきものだ。

弾き出されたものが行き場を失った時に、やっと多様性の出番になる。
別のルートを提示し、ちゃんと社会に戻る道筋を教えてくれる。

多様性を担保するには、全員が社会に貢献しようとするのはあまりよいやり方ではないと思う。

社会に貢献するということ自体が画一的な価値観だからだ。
もちろん方法は様々で、その違いにより得られるものは多いとは思う。
でも、根本は同じ。よい社会にしようという活動だ。

そのよい社会のあり方は、千差万別だ。
そこでまた価値観の各論部分で戦争が始まる。正義と正義のぶつかり合いだ。

それは、私が参加するのは、資格がないような気がしている。

正しい社会はこれだと断言するのは難しい。
それに自分が社会を変えるようなことができるなんて、甚だしい勘違いのような気もする。
正しい商売はしたい。それには社会において価値がなければ成り立たないから、社会にとってよいものを作り続けたいと思っている。
でも、それは社会を自分の思う形に変えたいからではない。この社会から肯定されたいだけだ。肯定されるために社会の形を変えるのは、思い違いではないだろうか。
社会を(どんな形であれ)支配したいと思うのは、とても重たい。どこか罪にも近いほどに。

社会に貢献したいという気持ちや動機は気高いのかもしれない。
その気高さを感じることで、自らの愚かさや汚らしさから目を背けることもできるかもしれない。
事実、それらの活動で救われるひとも多いだろう。
でも、それは根っこに「社会を自らの思う形に変えたい」という願望があり、それは結局この世を支配したいという願望と同じことだ。

本当に社会に貢献した素晴らしい人々は、たくさんいる。
それを否定するものではない。
ただ、私はそう簡単に社会に貢献できるなんて思う事は、畏れ多いことではないかと思っている。

社会というものは、それ自体が強く美しく愛に溢れ、苦しみや憎しみも同時に内包する懐の深さがあり、どんな形であれ必ず受け止めてくれる。
豪邸かもしれないし、ホームレスになってるかもしれないけど、どっちにしても受け止めてくれる。その形で。

私は、そんな社会に肯定されたい。
それでいい、人の役に立ってる(そこそこ)、とわかる程度にお金がまわるというだけで、私の気持ちは救われる。
社会に貢献してよりよくしたいとか、悪い部分を直したいとは思わない。悪い部分に見えても、それはそれで誰かの善かもしれない。一方的に断じる事は基本的にはできない。火の粉が飛んできたら必死で払うだけ。それが自分だけじゃなく、家族、友人、隣人、そして少々無関係だけど愛されなくてはいけない存在(子どもとか、芸術みたいなものとか)にも適用されるくらいの話だと思う。

貢献なんかしなくていい。
丁寧に商売をまっとうに回せるだけで、相当難しいし、それだけでも得られるものは多い。
貢献だなんて気高さに憧れて、自らを補強しないで、憎い時は憎み、悲しい時は悲しむくらいの、程度の低い人間でいさせてください。

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