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「自分らしさ」は必要とされない世の中で

女は女らしく、働く人は文句を言わずにこやかに適切に、男は男らしくちょっと悪いこともして、若者は若者らしく元気に、みたいなことがたくさんある。
「自分らしさ」なんて、1gも必要とされていない。
肉体と立場に準ずる属性に対して従順な表現と動きを求めている。

わたしだって求めてしまう。
レジの人は感じよく手早くレジ作業をしてほしいし、若い学生さんは電車で騒がないで静かに参考書でも見ていて欲しいし、お店の店員さんには押しつけがましくない程度にあれこれ教えてもらってよい買い物をさせて欲しい。

そう考えると、世の中は自分らしさなんて本当に必要とされていないなあと思う。

だけど、それは結構表面的な部分の話で、一歩踏み込むと自分らしさのない人たちは結局他人の求める人生を一生懸命こなすだけになっていく。

面接でいい評価を得るとか、取引先に好印象を持ってもらうとか、どれもこれも……表層だけはうまくいくかもしれないけど、表層をうまくやるためにものすごいエネルギーを費やすことになるかもしれない。
(たまに、たいして苦労せずうまくやれちゃう人がいて、それで天狗になってまわりのやっかみを買ったりする)

「自分らしく」というのは、むずかしい。
まったく価値がないのだ。
そして、価値がないのに、それを無視すると人生がずたずたになってしまうという矛盾を抱えている。

「自分らしさ」を追求しすぎても、他者から求められるものを提供できないとよい人間関係が構築できない。
かといって、過剰に相手の自分らしさを忌避する人は、はっきり言ってモラハラに近い位置にいるので、ノーというべき場合もある。
ここのさじ加減も超むずかしい。

そんな中で、自分らしさを手放さないでいるというのは、効率を求めれば求めるほどむずかしくなる。
効率を求めるほど、自分らしさより「社会的立場」や「見た目に準じたキャラクター」のほうが良い結果を得やすいので、簡単にそっちに魂を売ってしまう。そうして得る成功はたくさんあるし、それを得ようとしない事は控えめにって愚かなことだと思われる。
結婚をしない、子供を持たない、いい会社に就職しない、賞を取ったのにプロになろうとしない、などなど。

自分の中にも他人の自分らしさを否定しまくる部分があるし、そういう日効率的なことはやめて欲しいと思う事も多々ある。
他人にそれを求められて「いたらなくてすみません」と思う事もあるし、「はぁ!?!?」とブチ切れることもある。

自分と、他人というか社会の曖昧な基準。

自分らしいことが一番良いとも限らない、というのが、この社会の中で生きているという事が理由だと思う。

そして自分らしさはむずかしい。
なにか自分らしいかなんて、わからないものだ。それによく変わる。

そんな中で、「自分が心地よいと思う事」というのは、自分らしさのとても大事な指針になると思う。
年齢を重ねて、やっと「自分が心地よいと思う事を大事にする、時にそれで人と戦うことになっても」ということが自分らしさの輪郭であり、軸でもあるとわかってきた。

他人が望む、他人の利益に寄与する「与えられた自分らしさ」をがんばる必要はない。のだけど、与えられた自分らしさをまっとうせよ、という教育で育ってきたから、そっちのほうが利益のある社会になっている。
好感度がある方が仕事が楽になったりする。
与えられた自分らしさを優先する方が、人には優しくしてもらえることが多い。

が、大体それは間違った優しさであり、間違った賞賛だったりする。

それが間違っている、という事に気が付くまではずいぶんかかったのだけど、今ならわかる。その褒めは嬉しくない。その優しさは邪魔です。それがわかったことで、やっと「自分らしさ」をはっきりと持つことができたし、自分らしさを振りかざす必要も全くなくなった。

社会が「立場や属性に準じたらしさ」を求めてきても、「コンサバだな」と思っておけばいいだけになった。

この世に、自分らしさなんで必要ない。
必要ないから、好きに持てばいいのだと思う。
好きに変えたり、好きにやめたり、憎んだり愛したりしたらいいのだ。

喜ばしいことに、そのくらいの自由は、この世にある。

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つよく生きていきたい。