「ダサい」という防御を脱ぎ捨てて

おしゃれってなんだろうねって話です。

東京はいい街で、おしゃれだろうがダサかろうがなにか言われたりしない。
田舎で育っていた時は、おしゃれしたらあれこれ言われ、おしゃれしないと「若いのにーもったいないわー」などと言われるが、かといって服を買ってもらえることはない。

微妙にダサくしていることが最も防御として適切だったように思う。

「がんばればもっときれいになれるんだけど」という言い訳もできる。

実際には一生それ以上のきれいさなんて手に入らないんだけど、みんなそんな残酷なことは言わないし、お店の人もふんわりぼかしてくれるから、ダサい事はむしろ周りから優しくしてもらえるいい方法だったと思う。

がんばっておしゃれしたほうが、攻撃されるのだから。

でも、そうやってダサさという防御を身にまとっている人に限って、のちのちチクチクと嫌味や攻撃をしてくる。守る立場にいなくてよくなった時、攻撃をするという楽しみを見つけてしまうのかもしれない。
それ以上に、彼らは、おしゃれな人がうらやましいらしい。
嫉妬していて、その嫉妬を死んでも悟られてはいけないとかたくなに思い詰めている。

嫉妬は、リスクをとった挑戦をしなかった(できなかった)者のなれの果てだ。

彼らは口をそろえて言う。
「私は何も悪い事はしなかったのに。なんであんな服にお金を使ってる子の方がおしゃれなの。私は節約して、バカみたいな買い物もしなかったのに。なんであんなに浪費家の子の方がおしゃれできれいなの。私は控えめに黒髪でピアスも開けずにちゃんとしていたのに、どうしてあんなに髪の毛をブリーチしまくってる子の方が……どうしてどうしてどうして」

そして、最後に「私の方がずっときれいでかわいくて……おしゃれをしたら私の方がずっとおしゃれなのに!!」

でも、おしゃれをしなかった。
許されなかったという事もあるし、それから逃げ出す力もなかった、という事もある。すべてが自分の至らなさではない。でも、リスクを取らなかったのは、やっぱり自分なのだ。

嫉妬で心を守れるならそれでもいいと思う。
そうして、いじけて気持ち悪いおばさんになってでも、自分の気持ちを守ればいい。守り切れるなら、それでもいい。

ダサいという防御は、自分のいいモノを殺すというリスクを背負っている。
リスクのない選択はないからだ。

でもそれに気づくのは、ずっと後になってから。

その場にいる時は、まあまあいい方法だって思える。

人生の後半戦は、不思議な逆転劇が多数目撃される。
若い頃、かわいくて美人でおしゃれだった人たちが努力をせずにあぐらをかいている横を、若い頃はパッとしなかった人たちが仕事をして小さくても信頼し合う人間関係を大切にして着実に追い抜いていく。
持たざる者が、持てるものを追い抜く。

その逆もあって、なにもしないで穏便にやってきた人が、実は蓋をあけたら全然穏便でも何でもなくて、清楚で質素なつもりがただの貧困で、生まれながらに毛並みのいい本物の清楚(パールのネックレスはもちろんミキモト、100万円クラス)がいると知った時の打ちのめされよう。

自分はイケてると思っていたものが、全然イケていないとわかってしまった時の、破滅。

人生後半戦はそういうのが連発だ。
自分もそうだし、周りにもそういう事例がよく起きる。

結婚できないとクヨクヨしていたら、結婚した男たちが軒並みとっ散らかったおじさんになっていって、「ねえ、あの人もっとまともだと思ってたんだけど、なんであんなSNSで婚活女にウザがらみするようになっちゃったんだろうね。女の子が3人も生まれたらしいのにね」みたいなものも見かけたりする。
「結婚してダメになる男って、結婚して幸せになる男と何が違うんだろうねー」という新議題ができるので、我々は話題に事欠かない。

ちなみに、結婚というより男性は子供ができた時に、その事実を受け入れられなくて人生が破滅に向かうタイプは確実にいる。スピに走るおじさんは、自分が親になったことが苦しくて仕方ないタイプの人結構いるんだよね。マジでそんなお父さんイヤだよね。

こういうのも、リスクをとれなかった結果だと個人的には思う。

おしゃれをすることも、自分が親に対して嫌な感情を持っていることと向き合う事も、リスクがある。そのリスクをとれないものたちが、リスクを取らずにうっすらと防御を張った者たちが、着実に壊れていくのをよく見ている。

がんばって防御したのにね。
どうして守り切れなかったんだろうね。

防御は、結局のところ一時的なものであって、だから必ず防御は解かなくてはいけないものなのだろう。
ずっと「ダサい」という防御を張っていると、ダサさから脱却できなくなる。ダサさが本体になる。勇気を出して、ダサくない方に行かなきゃいけなかったのに。

おしゃれは、おしゃれをしようとすると必ずダサくなる。
この揺り戻しを受けない人はいないと思う。
そこでダサさの防御を張っていた人ほど、自分のダサさに衝撃を受け、死んでしまう。

そういうことは、若い時はわからなかった。

ダサさに食われて嫉妬まみれになっているおばさんたち(これはもう、自分の母親とか、自分が子供の頃周りにいたおばさんたちまでありありと思い出せるレベルでたくさんいる)。
心を素直に出せずに、スピリチュアルや不倫に走るおじさんたち。
なんならそういうのが大人ってものだとさえ思っていた。
ちがったね。
あいつらは、失敗例だ。

我々は、リスクを取っておしゃれをしなくてはいけない。
いや、より正確にいうと、ダサいという防御を手放して、はだかにならなくてはいけない。

その時、必要なことは「そんな弱くてダサい自分を許す事」。
誰かが言っていた。おしゃれをすることは、おしゃれすることを自分に許す必要があるって。
その前に、ダサい自分を許そう。ダサいね、ダサかったね。もっときれいでかわいいと思ってた。そうじゃなかった。でも、許そう。もっときれいならよかったのに、でもそうじゃない事を許そう。

そして、おしゃれすることも、許そう。
そんなダサい自分だけど、おしゃれしてもいい。

傷ついていることも許そう。傷ついたのだから。
悲しむことも許そう。悲しい事があったのだから。
それに防御を張らなくてはいけない時間は終了した。まだロスタイムの中にいる痛みもあるけど、ロスタイムを20年も続けるのはどうかと思う。
許そう。

このダサくて、微妙な、まあまあいいところもあるけど、ちょっともうどうにも直らないあれこれを、ぜんぶ、許そう。

そうしてみると、この世界は、この社会は、とてもやさしくて丁寧で、ちゃんとしたものがたくさんあるのだと気づき始める。


つよく生きていきたい。