(いい意味で)おかしいとは

すごくわたしの事を買ってくれている人がいたのだけど、この前久しぶりにお会いした。

その時、すごい真面目な顔で
「ほんとにね、あなたはおかしい。いい意味でね。前もそうだったけど、ほんとにおかしいの。だからどうなるか全然わからない。おかしいから。いい意味で」
と、何回もおかしいと連呼していた。
すごくほめてくれて、応援してくれて、買いかぶっている訳でもなく正当な評価としてそういってくれている感じがすごくあって、うれしいなあ、そして面白いなあと思いました。

おかしい、というのは、確かにその通りだと思う。

華々しい経歴の人が、すごい業績のビジネスを作った時には、周囲からは「すごいなー」といわれると思う。
それはある意味できるはず(でもすごく難しい事)と思われていて、つまりは想定の範囲内という事だ。

でも、おかしいと言われるのは「どうして水をコーヒーマシンにいれたのに、石油が出てくるんですか」くらい訳のわからない状態に見えているという事だと思う。

わたしとしては「それしか道がなかった」という感じで、自分の中では大変理論整然としているつもりなんだけど、外から見ると「いやわかるけど、そこそこ結果出始めているのも知ってるけど、おかしいよね、なんでそれが売れるの」という感じなのかもしれない。
それは、やっぱりわたしの常識のなさとかの「足りなさ」と、それゆえに強調されたオリジナリティというものなのかもしれないと思っている。

おかしいと言われることは、つまり他に追随せず、だからこそ追随を許さない存在に一歩近づいた可能性を感じる。

でもね、おかしさを追及するのは本末転倒なんだと思います。
手段の目的化という大きな罠があちこちにあるけれど、これもそのひとつで。
それを言ったら、オリジナリティを追求することだって手段の目的化かもしれない。

差別化とか、一芸に秀でる商品づくりとか言われるけど、そんなの後付けなんじゃないかって。うまくいっているところをあちこちサンプル抽出して分析かけただけの学者先生やクソコンサル(コンサルタントが嫌いなせいで言葉が乱れました)があーだこーだ言っているだけじゃないかなって。

結果的に周りが勝手に「おかしい」と思って頭を抱えていても、それはそれで私としては「おかしいと感じて楽しんでもらえるコンテンツをひとつ差し上げる事ができた」という喜びぐらいなもので、他人様から「ちょっと変わった存在」として認めてほしいというのとはちょっと違う。
ただ、淡々と自分のビジネスをやり遂げようという事だけ。

そもそも親の借金を返すためにビジネスを始めたのが一番最初だったので、切羽詰まり度は半端なかった。

そして、誰もお金なんか貸してくれないし、お金をチラつかせる人は貸す気もなければむしろむしり取ろうというようなやつばかりだった。

そもそも、うちが借金を抱えたのだって、嘘くさいコンサル的な人の発信する情報という名の無責任なおしゃべりみたいなものが発端だった気もする。(だからわたしはコンサルタントという存在を心から憎んでいる。個人的にコンサルタント業に携わっている人も知らないわけではないけれど、だからといって憎しみが消えるという問題ではないし、友情が保てないという事でもないが、コンサルタントという存在をけっこう激しく憎んでいる)

スタートが「絶対に人の意見は聞かない!取り入れない!絶対にだ!」という強い覚悟とともにあったので、おかしい道しか進めなかったし、それでも結果さえ出れば「おかしい(いい意味で)」という称賛に変わっていく過程も体験する事ができた。

まだまだ道半ばというより、これから始まりという感じなので、これからもおかしいまま疾走し続けたい。
というか、普通であろうとした時、わたしは道を間違えているという事になるんじゃないかなと思っている。

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