「おしゃれっぽい」と「おしゃれ」の違い
おしゃれっぽい人をたくさん見る機会に恵まれた。
みんなおしゃれな服を着ている。
しかし、おしゃれ「っぽい」。
なぜでしょう。おしゃれしてるのに。
かくいう私も「っぽい」ことになる率が高くて、どこかで「着慣れてないし、しょうがないな」みたいなことを思っていた。
着慣れていないから、おしゃれじゃなくておしゃれっぽくなっちゃうのか?
じゃあ着慣れたらいいのか?
半分くらいは正解のような気がする。
もう半分くらいの正解が、私の中でははっきりしていない。
が、やまほど「おしゃれっぽい」人たちをボーっと見ていて、そのぼんやりしたひっかかりが、ちょっと強い疑問&問題提起になっていった。
なぜ、彼ら・彼女らはおしゃれをしているのに、「っぽい」ことになっているのか。
単純に服はとてもきれいで、おしゃれなものだった気がする。
少なからずおしゃれさのあるものだった。
逆に言えば、地味でベーシックなものとは言い難いものが多かったという事でもある。(しかしながらブラジルサンバカーニバルみたいな派手さはない)
中途半端だからいけないのか?
ド派手ならおしゃれかというと、「派手な人ですね」ということになる。おしゃれな人ですね、にはなりにくい。
それにしても、なにか画一的な印象があって、地味ではないが派手でもなく、服自体はおしゃれなのに着ている人たちは「おしゃれ」と判断されにくいというこの状況は、一体何が引っかかっているのだろう。
私自身もおしゃれチャレンジ歴は本当に浅いので、他人の服装にどうこう感じる感性がまだ乏しいのだけど、少し考えてみた。
その場は、ファンが推しに会いに来るような場所だったので、そりゃあみんな取ってつけたような感じであっても目一杯のおしゃれをするだろうな、結婚式会場やシアターではないのでドレスって選択肢は少ないけど、でも推しに会えるわけだから、なるったけのキメ服・キメスタイルにするに違いない。
その高揚感が、上滑りのもとになっているのか……?
外野的な私は見ているだけなので、そういう高揚感がゼロで、それも違和感の元だったのだろうか。
むずかしいのは、みんなおしゃれをしているとはっきりわかる、というところだ。
どうやら、おしゃれをしているとはっきりわかると、急に「おしゃれっぽい」になってしまう気がした。
しかし、キメ服におしゃれ要素を入れなければ一体いつ…!という気持ちもあるので、おしゃれとはなんぞやという禅問答に陥る。
オシャレ履歴が浅い人間の私にも、スタイルの存在があまりに大きすぎるということはなんとなくわかるようになってきた。
スタイルは、服そのものではないが、服で表現することになる。
あまり美容室にいかないライフスタイルがその人の髪型を作る、あるいはその逆にこまめに美容室に行くのが好きという気持ちや感覚がその人の髪型になるように、生活や感覚や、意思や意図や、そういうものが面積の大きな服というものに現れてしまう。
おしゃれをしてきた人たちは、精一杯自分をよく見せよう、推しに良い印象を持ってもらおう、推しのいる空間に恥じない自分でいたい、推しのいる空間を恥ずかしくないものにしたい、などと一生懸命に装ってきたのだと思う。
あまりに、健気で……また同時にエゴイスティックな感情だ。
エゴイスティックなことが悪い、という意味ではない。
幼く未熟なことが悪い事ではないように。
でも、もう少しやりようがあるのでは?あなたは大人だし……みたいな伸びしろが透けて見えるところに、「スタイルの欠落」があり、おしゃれじゃなくて「おしゃれっぽい」になってしまうんじゃなかろうか、みたいなところまでは考えた。
(おしゃれが未熟なことは、私がやっとファッションなどに意識が向くようになったから感じるようになったことかもしれないので、別に全員がファッションやおしゃれを頑張る必要はないと思うのは、あんまり変わってない。歩ける人は全員陸上選手にならないといけない、なんてことはないんだから)
しかし、成熟したおしゃれって何だろうか。
こなれ感というけれど、使い古しとは違うんだよね、その塩梅ってどういう感じなんだろう。
自分でもいい服を着る時、「ああ、おしゃれしてるな、悪い意味で」と思う時がある。がんばって服を着ている。
実際、がんばって買った服であり、がんばって着るようなレベルの強い服だったりするから、どうしたってそうなる。
そこを通過しないと、「おしゃれ」エリアには入らないのかな……等とぼんやり思う。
おしゃれな人じゃなくて、服がおしゃれな人、おしゃれをしようとしている人、になってしまう。
というか、そのままそういう状態なので、否定など1mmもできない。
でもそれはなんかイヤって思ってるんだよね!
それが素直な気持ち!
おしゃれじゃなくていい、でも「おしゃれっぽい」のはおしゃれじゃない事よりも嫌。
だって、おしゃれじゃないことがこれほどあからさまになることはないもの。
おしゃれを頑張るほど、おしゃれじゃないことが強調されちゃう。
つらいなー、心折れるなー
「私はおしゃれじゃないんで」と開き直るのもひとつの方法だと思う。
でも、わかるようになっちゃうと、開き直ることもまた居たたまれなくなってしまう。
こんな精神状態で、もし今、私に推しと呼ぶような存在がいて、イベントなどがあって直接会える機会があったとしたら、私はなにを着るのだろう。
浮かれて、はしゃいで、上滑りした「おしゃれっぽい」格好をしてしまうだろうことは目に見えている。
そんな高揚感には、ナニモノも代えがたい。
しかし冷静に戻ると、取ってつけたようなおしゃれをしてしまったと恥ずかしくもなるくらいにはなってきた。
他者からのジャッジよりも、自分がそう感じるという部分が、大きく伸びてきてしまった。
結局のところ、答えはまだないというしかない。
暫定的な仮説としては、
おしゃれじゃなくて自分にとって良い形って何かというと、自分が美しいと感じるものや、身につけるとシュッと気持ちや体が整うもの(だから足が痛い靴もシュッとなるなら履く、というのはわかるようになった。ルブタンのパンプスとか、足にとってはグロテスクかもしれないけどその異様さが心を持ちあげたりする)。
また、自分のサイズに合ったものや自分のテイストにあったものは取り回しやすいというのも最近の発見です。私にとっては華奢ジュエリーとか、フェミニンな形をしているけど装飾性が少ないデザインとか。サイズ感だけじゃなくて、テイストにもそういうものがあるのかという感じ。みんなパーソナル診断に走る意味が分かる。取り回しがいいし、表面的な評判も傷つけない(なんなら評価がちょっと~あからさままで幅広くUPすることもある)。
でも、それだけじゃダメ。ダメなのだ。
おしゃれだとか、似合うとか、そういう事の先に行きたい、って思うようになってしまった。
その先に何があるのかは、全然わからない。
そんなことしなくてもいいのかもしれない。
非効率極まりない事のような気もするし、タダの浪費のような気もする。
でもそうじゃない価値観の世界があるし、そこはかすった手応えしかないけど、自分がありのままにいて許されるような気配を感じている。
おしゃれをしなくてはありのままでいられないということ自体矛盾があるような気もするし、本来の自分自身を表現するにはある程度の加工(服を着て、髪を整える)ことは必要だしそこで失敗する方がありのままから遠ざかるともいえる気もする。
この二律背反を乗り越えて、次のステージへ、ぴょーんと着地したいなと思っている。
つよく生きていきたい。