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誰も誰かの魂は救えないし愛することもできないんだろうね、って話

そこそこ生きていると、すっごい美人(顔採用傾向が強い職場の全員が「あのきれいな人」と目印かのようにいうレベル)や、超高学歴やハイエリートみたいな人たちと遭遇することがある。

彼らが全員超お幸せかというと、実は全然そんなことなかったというのは、正直本当にがっかりしてしまった。(とはいえ、超のほほんとお幸せなケースも、わかりやすく腹立たしいものだ)

実際に美人だとか超優秀エリートだとか、とりあえず個人の資質に資するものが目立っている場合、その目立った部分のみを重用されて、結局本体である本人の事は意外と置き去りにされていることがよくあるなと感じることが多かった。

美人は美貌が崩れたり、飽きられたらあっという間に「別の美人」に人の注意(それをたまに愛だという人もいる)がうつる。
頭のいい人は、その能力を重用されて、その人自身は能力の付随物または入れ物としてしか大事にされない。
限定的にでも大事にしてもらえるというのはいい事だと思う人もいるけれど、そりゃ無下に扱われるよりはいいよね、という感じだ。非常に愛されているかというと疑問が残る。
まあ、無下にされることの方が多い世の中だから、とても恵まれているとはいえるし、恵まれていることを愛されていると言い換えている人も多いのは知ってる。

だけど、美貌の器として、能力の付随品としてしか必要とされず、特段愛されてもいないのは、どういう人生なんだろうなーと、想像する。

美貌も、ずば抜けた能力もないならあきらめもつくだろう。
でもそれを許さないような圧倒的なものがある場合は、そこ以外の部分はどうなるのだろう。

と、思わせられるケースにも、結局何度か遭遇している。

美しい人の(男女問わず)、本体、例えば魂と呼ばれるようなものは、いつも置き去りにされている。
そのせいかわからないけど、本人はいつも疎外感に悩まされたり、ちやほやされることでしか自分を保てなかったりして、特に人生の後半戦ではぐちゃぐちゃになるのをお見かけする。
逆に見た目がよい事で、確実に精神的な課題を抱えている状態でも見過ごされているパターンも、ある。

超能力の高い人は、二つに分かれる。自分の力量でそれを活かせる人と、他人に使われなければろくに役にも立たない人だ。
前者は、そこまで能力が高くなくても割とうまい事やれるんだけど、後者は能力が高いほど「利用」されるしかない。利用してもらえる場が与えられるならまだ恵まれているほうで、能力が高いけどそれを使えない状態にいる人はたくさんいる。女性の高等理系専門分野に能力が高い人とか、進学することができなかった貧困層とか、たまに本当にすごい才能あるのでは?という人が、スーパーのレジみたいな「だれもができる仕事」なんて言われる職についている事がある。

美しさや才能、能力を持っていることは素晴らしい事だけど、それがその人の幸せに直結しているとは限らないし、それを活かして人に貢献するのが本人にとって幸せとも限らない。
しかし、美しい顔をなるべく多くの人に見せて喜ばせよ、能力を発揮して社会に還元せよ、という圧力の中で生きていくことは、本体(本人)にとってかなり重い荷物なんだろうなと思う。

みんな、無意識に賞賛という形で搾取していく。
与えても減らない富なのかもしれないけれど、それがいい事なんだろうか?と私は疑問に思う。

美人であることで周りを喜ばせるのと引き換えに、ちやほやを要求する。とはいえ、ちやほやがそんなに好きじゃない人は、そんなもん要求するだけ苦労する。だから、ちやほやしか手に入らないとわかったら、美貌を見えないように細工するようになる。

能力の高さを利用されていたら、それを隠すようにする。

そっちの方が、私はよい生き方のような気がする時がある。
他人に搾取される奴隷のようなスタイルなんて、あまりおすすめできないじゃないか。
でも、人生の前半戦は、ほぼ搾取される形になるから、搾取ありきの勝ちパターンをつかんじゃうと、そこから抜け出せなくなるのもわかる。
そういう人は、ほとんど搾取に身を明け渡していて、主体性を失っていることが多い。

主体性がある人は、搾取されていたら、悲鳴を上げて逃げ出すしかない。
少しは我慢するかもしれないけど、一生は無理だ。

そういうあれこれがあって、私は主体性のある人としかお友達になれないんだなという結論になった。
主体性のない人は、知っている人止まりになってしまう。
仲良くおしゃべりした場を持ったとしても、それは社交の一環ということで。

しかし主体性のないパターンの人は、ただの社交とお友達の差はあまりないらしい。
主体性を隠しているパターンと、主体性がもともとものすごく少ないパターン(痴呆や知的障害、大けがなどの身体的な障害などでそういうものを持てない人もいる)があるので、あとあと隠れていた主体性がねちねちと文句を言ってきたりという事があるし、なにか本心があるのではと思っていたけど本当に何も考えていないという事もある。
だから、勝手にこっちが推測するのは意味がないのだ。
ただ「主体性がない人なのかな」という感想は持つ。

主体性がなくても、人として尊重されるし、人気の高い人だっている。主体性のない方が、好感度は高かったりもする。特に日本では。
そして、何も知らない時は、人気の高い人のほうが優れていて、幸せなんだと思っていた。勝手に。

実態は全然ちがっていた。

私は主体性を持ってしまっている。
他人が私と同じくらい主体性を持っているかは、わからない。
私よりも強烈に主体性を持っている人たちも結構いて、フリーランス生活になるとそういうタイプしかほとんど残らないというのも影響していると思う。(たまに主体性のない能力を買われているタイプのフリーランスもいるけど、そういう人は本人に情熱がなく、フォロワーが一方的に持ち上げている場合が多いので、ある日はしごを外されるみたいな消え方をするか、それを避けようとよくない手段に出てしまうか、という悲劇をよく耳にする)
主体性のない生き方は、効率はあまりよくないかもしれないけど、本人にとっては少々苦労してもそれ以上に居心地のよいやり方になると思う。
まあ、交通費も全部自腹、お給料なんかない生活ですけれども。

100回くらい「お給料もらえるわけじゃないの!あなたの2時間と私の2時間は意味が違うの!交通費は自腹なの!」と叫んでいるけど、その意味が分からない人はたくさんいる。

それでも、主体性を尊重した生き方がいいんですよ……。わたしはね。自腹を切ってでも。

魂と呼ばれる、本人の芯の芯みたいなところって、見た目とか能力とか無関係で、そこには他人の愛や関心は全く届かないんじゃないかなと、たまに思う。

しょうがないので、自分でなんとかするしかない。


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