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香港のデモ活動について

言うほど、ダメではない。
街はそれなりに普通。

でも、そうじゃない場所もあるし、今日なんかは昼間のショッピングモール内で武装した警察がドカドカとエスカレーターをお客跳ね飛ばしながら走っていたりしたらしい。

危険なスラム街がある地域は世界中にたくさんあるけど、いつも普通に暮らしてた街が武装した抗争が突然起きるスラム街のようになったとしたら、それはとてもショックなことだ。

ペニンシュラみたいな高級なホテルには武装警察は乗り込んで来ないのだろうか。
忖度するのだろうか。

デモ活動には遭遇していないけれど、テレビをつけたらCMいきなり中断してライブに切り替わり、ごうごうと燃える催涙弾の映像が出てくる。
どうも焼夷弾に近いものにティアガス(催涙ガス)をのせたみたいなものになっていて、「人を傷付けずに暴走を止める」という意図の道具とは言いがたい様子らしい。

ただ香港にきただけの状態では、なにが「正しい」のかは全然わからない。
でも、殴られたり殴ったり、壊したり、毒ガスをまいたりすることが「必要」というのは、正しいとは言えない状態には違いない。

「バスク地方はしょっちゅう武装蜂起してましたけどね」

こういうことは、特別なことではない。
だからこそ、安全に暮らせるということは、本当に得難いし、その得難いものを勝ち取り、保つための努力を重ねた先輩たちのおかげで、わたしはのんきに暮らしている。
つまり平安を消費するだけで、未来の平和と安全に寄与してはいなかったのかもしれない。

ホテルのテレビでは字幕テロップで16歳の女の子が警察で強姦されて、堕胎手術を受けたというような文字が流れてる。(読めないけど)

近く、選挙があるそう。
そこも含めて香港は学生さんの死亡ニュースとそれらを含めた追悼、毎日毎日殴ったり殴られたりティアガス発射されたりの繰り返し。

この着地点は、外国人の私にはわからないのかもしれないし、私にもなんらかの責任があるのかもしれないし、考えるだけ無駄なのかもしれないし、考えるべきことなのかもしれない。
この「どちらか、あるいはどちらでもないか、その両方」という答えのない状況に追い込まれることが、個人としていま香港にいる人間としての私の精一杯。

考えることは自由だ。
私には答えのないことでも、考えたっていい。
休みに似た足りない考えだろうけれど。

そして、彼らの答えが正しいかどうかなどは判断できないという無力さを自覚しなくてはいけないと感じる。
でももし自分に被害がくるとしたらどうするのか。なんとなく守ってもらえると思ってるけど、それは甘えと無知が多分に含まれているという薄ら寒い自覚もある。だから、いろいろ考える。

考える時間があることは、とても恵まれているのだ。そして、とても無為でもある。

つよく生きていきたい。