男か、女か
「姐さん、中身男でしょ」
と、先日男友達と飲みに行ったら言われた。
「こんなに女らしいのに(´゚д゚`)!」
「いや見た目の事じゃなくて」
「せっかく髪の毛ゆるふわパーマにしたのに(´゚д゚`)!!」
「そういうことじゃなくて」
いやほんと、わたしは小柄で華奢な女性の身体の中に入っているけれど、どうにもこうにも中身は男っぽい。
思い返せば10歳くらいの時は「ボク」と言っていたし、女になるのがすごく嫌だった。でも男にもなれない、宙に浮いたような存在の少女時代だった。
田舎の家だったので、最初に生まれは長女の私はちょっと出来が良かったこともあって、無言の「男だったらよかったのに」という空気をしっかり感じていたし、長男の仕事を末っ子に弟が生まれても務めるようなところがあった。
性同一性障害という事でもないけれど、自分という存在は、この身体にどうにも沿っていないというのは感じていた。
身体性の弱さというのが、わたしの弱点ともいえるだろう。
この小さくて華奢な体が、自分自身というものにぴたりとこない。借りてきたもののようになる。フィットしていない、浮いている……。
かといって、取り換えができるものじゃない。
そして、この身体にしたがって生きなくてはいけないのだ。生きるというのは、そういう事だ。身体があって、生きているのだから。
でもある時聞きに行ったトークイベントで
「僕は、身体が男のレズなんじゃないかと思う」
という発言を聞いた。
「あっ、私は女の身体の男でゲイだと思います!」
と、ライターで司会役の女性が言った。
( ゚Д゚)!ソレダ!
いやー、ほんと。たぶん、わたしも結構そういう節があり……。
ちゅーと、やっぱりわたしは男なんだろうか。
この身体で、この社会を常識的に生きるから、女って事になるけれど、じっさいのところ、ねえ?
かといって、男なのかと言われると、そうじゃないような気もする。
別にメカとか変身ロボとかどうでもいいし。戦車とかに感動しないし。
女が好きとされるものも大好き。化粧品とか、可愛らしい手芸のお店とか。小さなアクセサリーとかジュエリーとか。
つまり、見た目での判断以上に、中身というのは曖昧で、曖昧だからこそ見た目で判断するのが最大公約数という形の効率なのだと思う。
特に若い頃、10~20代の時は、女の子っぽさがないと非常にぎょっとされて、いろいろやりづらかった。
仕方がないので、ある時方針を変えて、受付嬢の仕事をすることにした。
それまでもイベントコンパニオンとかの仕事がぽつぽつあったので(しかしかなり成り行き上だった)、若い見た目のいい女という社会的バイアスをそのまま換金する職業に就いてみた。
そこで、とても職場に恵まれ、美女で仕事がとてもうまい人たちと一緒に仕事をすることで学ぶことができたと思う。
見た目が仕事に見えても、別に普通に仕事は仕事。あと、見た目がちょっと悪くても仕事ができる人じゃないと職場ではどうにもならないわけで、そういうことをちゃんとやりながら社会的バイアスをうまく乗りこなして、もちろん嫌な目にもあうけれど、それもひっくり返してプラスにしていくやり方とかも、身近で見る事ができた。
ついでに、全員が「あのきれいな人」というくらい、本当に美人とかを何人もみた。
そういうあれこれを過ぎ、若い女という枠から外れる年齢になってきたことでも、ずいぶん楽になった。同時に失ったものもあるのかもしれないけれど、それよりも楽になった事のほうがありがたいとさえ思う。
男なのか、女なのか、そういう事で判断するしかない社会に生きているのだから、それはもう仕方ない、とどこかで思っている。
それを変えようとしていく人もいるし、それに抵抗する人もいる。
私はずっと混乱していたと思う。
いや、今も混乱している。
それでも、ずいぶんマシになった。
見た目は、小柄で華奢な女、中身は比較的男。
やだなあと思う。
どういう服を着たらいいのだろう。そんなつまらないところで、つまづく。
でも、そういうものだ。ちっぽけな自分にいつもつまづいて、ウロウロと数年を無為に過ごしてしまう。
身体が女のゲイでもいいじゃん、とは、サクッと言えないのです。
中身男だよねって言われて、素直にうんとは言えないのです。
自分の身体が自分にフィットしていなくても、どうにかこうにかこの身体で生きていかなきゃいけないんです。健康であるだけでありがたい事でもあります。
それでも。
それでも、自分の人生はこの身体で本当に正しいのか。間違っていたとしても変える事はできない、最初から大きなミスを抱えたまま、どうやって生きていけばいいのか。
わかっていても、ずっと混乱している。
そういって新しいマニキュアを塗る。
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つよく生きていきたい。