見出し画像

たとえ電流を流されても泣きながら逃げ出す犬になりたい

思っているだけでは、何も変わらないのだ。
でも勇気を出して一歩進むことで、何かが変わることはある。

死ぬほどつまらない言い回しだけれど、毎度そういうことに出会うし、そういうことを愚直に進めるのが一番早い道だったりする。

そして勇気を出して進む先は、できるだけ世界のトップ、一流と言われるようなものであると、勝率が上がる。
これが貧乏人をカモにしているケチな詐欺師相手では、勇気を出したところでむしり取られて最初より悪いことになりかねない。(そして詐欺師は頭の悪い貧乏人を狙う)

自分にはない価値観の世界に、自分の価値観で乗り込んでいこうと思った時、東京という街はいくらでも私にその富を投げ与えてくれた。
丁寧に店を訪ねれば、門戸を開いている店なら、タダでその商品を見せてくれることが多い。(本当の本当にVIP向けのお店は見えないように存在しているので、我々が普通に見えているお店は大体誰でも入れる。資格がないと決めつけるのは自分自身だったりする)

学びが多い。
まあ、変な人もいるんだけど。

子供の頃、髪の毛は母がずたずたに切ってしまって(本人はウルフカットを目指していたんじゃないかと思う。変に襟足やもみあげが長い)、ずたずたの髪の毛で学校に行っていた。
それが別に嫌だというほどでもなかったが、もっと大切にしてもらう方法がいくらでもあったというのはあとで知った。

学校の制服も、冬服のスカートは用意してもらわなかった。同じ紺色のプリーツスカートだから、ブレザーさえ着用したらそれでいいというスタンスで、金は出さないということだったのだろうと今は思う。
ガンガンと石油ストーブがたかれる教室で、ひそひそと男子が「あいつのスカート透けてね?」としゃべっているのが聞こえて、自分が冬でも夏服を着ていることに気づいた。

おしゃれなど絶対に禁止というご家庭育ちで、イヤイヤ期的な時は全裸で雪の中に放り出されて「がちゃん!」と大袈裟な音を立てて鍵をかけられたりした。私と妹はよく全裸で放り出されたが、末っ子長男の弟はそういうことはあまりされなかった。
車から放り出されるとか、割とよくあるパターン。
あまり子供にやさしい家ではなかった。

のちに、借金苦に陥り、私は高校卒業の前に進学などなくなり(それもはっきりと進学するなとも言わず、私に諦めさせるようにただ黙っていたのだ。かなりズルい)、私の成長をすべて邪魔をし、支えることはしない家庭だった。
たぶん、本人たちは子供はかわいいと思っていたし、それなりに愛していたと思っていただろうけれど、同時に本当に邪魔だと思っていたのも事実だろう。

最終的に、凄まじい家庭内暴力が繰り返されて、私は1年かけて準備し、家を出た。「残したものは燃やしていい」と言って。

そうやって家を出たものの、数年後に電話がかかってきた。
「明日までに50万円払わないと家を取られる、なんとかならない?」

そんなふうに、私の邪魔ばかりして。
好きな服も着させることなんて一度も考えたことがなかっただろうに、「ダサい服着るな」とか言い出すし、学校にあげる金もないのに「私の子供なら頭がよくて当然だ」と言い出すし、最終的に私の最も深い蔑みのセリフが「本当に私の母のようだわ」となるくらいに父にも母にもひどい目にあわされた。

特に、ファッションに関しては最悪だった。

そういう背景を引きずって、逃げるように大人になり、いざ大人になったら別に服の事は無視してもやることをやってればそれなりの成果を出す方法がいくらでもあるとわかって、実際にやった。
明日までに50万円ない?と言われて、その時はなかったけど(金は兄弟でかき集めて払った)、「3年でなんとかする」と言い切って、実際に3年でなんとかしたのだ。

だから、私のファッションに関することは、強烈な虐待をベースに始まっていて、その後ろにはお金の問題が隠れていた。つまりは、格差だ。
お金がいくらでもあったら、好きな服を好きに着てもよかったのかもしれないけれど、今となってはわからない。
(父は300万円くらいする自転車を何台か買っていたので、まったく金がないということでもなかったとは思う)

ファッションは、格差を最も端的に示す。
本当に格差が出るのは教育面なんだけど、ファッションは見た目だから、もう隠しようがない。教育面は黙っていれば少しだけは隠せる。でも、どれだけ頭がよくても、ファッションはあからさまな格差を映し出す。

そして、どんな時も、格下はそれを見抜けない。
わからない。知らない。

そういう悲しさを、高価なものを知るほどに理解していくはめになるので、よく内々では「よいものを知るほど不幸になる」と冗談めかして言っている。

私が格差がある中から飛び出せたのは、人間関係をすべて断ち切ったからだ。友達どころか、親兄弟親戚縁者、すべて。
産まれてから10代、20代の頃の私を知る人はひとりもいないし、写真も1枚もないレベルだし、母校は人口減少によりすべて消滅した。

そうやって、何かを失ったことと引き換えに、私は格差を乗り越えていくある種のアタックを始めたのだ。
まずはビジネスを立ち上げる事。それも少し特殊な。
そうしてお金という不確かな、そのくせ強烈に人を支配するものについて、いろいろと学んだ。別に投資とかはしてないです。お金持ちになる公式とかみんな大好きだけど、そういう意味ではない。

そして、お金が少し動き始めるようになって、今度はファッションという高い山にアタックすることにした。
しかしこれも答えがあるようでいて、ない。ないようでいて、ある。
世界的な映画祭に松たか子が着物で出て、海外なんだからもっとド派手なのを着ればいいのに!と言われたり、あれがあの子の着物のスタイルでそれを貫いててエラい!と言われたり、似合っていてもケチがつく。上等な服でもケチがつく。安い服でもケチがつく。
逆に「すげー最高におしゃれ」というやつも、玄人筋からするとおしゃれなのかもしれないけど、どこがおしゃれなのかわからないものも多かった。
あまりに答えがなさすぎる。
しかし全裸は犯罪である。許されない。何かを着ないといけない。

ファッションには、どうしても学習性無力感が起きやすい気がする。
子供の頃に親に虐待レベルで服を与えられなかった人間は、何を着ても恐ろしく思う。例えば私のように。服を買う事がすべてものすごい罪悪感にさいなまされる行為だった。でも着ないわけにはいかない。
逆に、お母さんがファッショニスタ過ぎて、子供が自分の服を確立できなくて一生悩む(30代、40代になっても親の顔色をうかがう)ことになるという話も聞いた。
がんばって着ても、例の「何がおしゃれで、何がダサいか」という謎ルールが頻発して、振り回される。

学習性無力感は、犬に電流を流して痛い思いをさせても逃げられないようにしていると、そのうち電流を流しても逃げることをしなくなるという実験の話が有名だ。
逃げられない事が続くと、逃げようとすることを忘れてしまう。無力を学習させられてしまうのだという。
私はその話を読んだ時、ボロボロと涙をこぼしながら「私は悲鳴を上げて逃げる犬になりたい」と思ったのだ。
電流を流されてクンクン鳴いて床に寝そべるしかない犬ではなく、柵を体当たりで壊して逃げていく犬になりたいのだ。そのために腕の1本を失ってもいいと思うくらいに。足はダメだ、逃げ切るためには残しておけ。

ファッションも、そうやって、高い靴を買い、最も軽薄と言われる(過去の価値観において)一目でわかるブランドバッグを大金タイマイはたいて買った。
その後、上質な安くはないショートブーツ、苦手だと思っていたけど試着していく中でこれはいけると思ったコートと、5万円をこえるアイテムをコツコツと買った。
合間に、ユニクロも無印も、よく知らないオンラインアパレルブランドも、中堅どころのものも、少しずつ買った。

結果として言えることは、安い事で妥協したものは結局着ないということだった。妥協なく徹底的にいいものを選ぶ方がストレスもなければ資源も無駄にならず、お金だって意味のあるものになったのだ。
そして、服を通して、本当の自分のような存在がたまにちらっと出てくる感覚があった。別にいつも隠しているわけではないけれど、自分の奥底からずるりと出てきた、私自身が認識している以上に私らしいものが、ファッションに出てくるのだ。
それはいつもではなく、うまくいかない時も多いが、たまにそれがかすめる回数が増えた。

そんなことを繰り返していく中で、ついに、ファッションブランドの秋の新作の中から、ショーに出てくるアイテム(ショーピースというそうな)と同じ生地を使ったアイテムを、買った。
最もおしゃれな人の買い方と同じ買い方を、飛び込みでやったのだ。

信じられないほど高価で、信じられないほど派手だ。
でも、全然着れちゃった。コンバースでもいけた。きっとブーツにあわせたら最高だろう。
着てみて「ああ、ファッションは勇気(とちゃんと働いて得たお金)さえあれば、扉を開いてくれるんだ」と感じたのだ。

悪いことをしなくては手に入れられないとか、有名ブランドの新作だなんて軽薄で頭の悪い人間が群がるものだとか、勝手なことを思っていたけれど、そういう面もないわけじゃないけれど、普通に生きていればちゃんと手に入るし、しかも自分がいいなと思ったものは、誰もがいいなと思ってしまうほどに良いものだったのだと再認識できるほど素晴らしいものだった。
なにせ、世界のトップオブトップのひとつでもあるのだから。


飛び切りのブランド品は、アートピースだ。
買うと決めた時、どこか絵を一枚買うような、オブジェをひとつ買うような、そんなアート作品の購入のような気がした。
絵画も、アート作品も、10万円は結構安いものだと思う。
その上、着て自分と作品が一体化するという楽しさがある。人に見せるという良さもある。

幼いころからずっと電流を流されて繋ぎ止められていた柵を破って逃げた先に、そういう世界が広がっていた。
別に、今からファッションの世界でトップを取ろうとか、ひとやま当てたいとか、そういうことではない。ファッションを極めたいとか、そういう事も思ってない。
ただ、天才の作ったものを分かち合うひとりになる、という経験ができたのだ。それだけで、十分生きてきた価値とか意味って、あったりする。

褒められなくてもいいし、何ならケチつけてもらってもいいとさえ思う。
「たいして金もないくせに贅沢な服を着てるのよ、一体どうなってるのかしらね」と陰口を叩かれても、むしろ本望だ。
そういう陰口が正義とされる世界に生まれ育った自分には望めないと思っていた世界にアタックして、成果を得たのだから。

その成果は、私にしかわからないし、外にいる人たち、つまり私以外のすべての人には「なんかいい感じのお洋服着てるわね」と思ってもらえたらそれ以上はないし、「子供の養育費に取られておしゃれなんかできない」とひがみっぽく言われても、それだけお金をかける大切な存在があることは、いい洋服を買うことと同じかそれ以上に価値があることだなと思う。

人それぞれに電流を流されて激痛に悲鳴を上げることがあるだろう。
それでも、それを蹴破って、逃げる犬になりたいのだ。
その先には、自分の予想なんかを大幅に裏切る展開が存在してることが多い。


ドリス・ヴァン・ノッテンの新作を買った。



ここから先は

0字

¥ 300

つよく生きていきたい。