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富の奴隷

前のnoteにも書いていたけど、価格と価値とは全部違うものだし、喜びも幸せもそれぞれ違うものだから、全部のベクトルを総合して全体的にいい感じに仕上げないといけないよねっていうことを考えているんですが、なぜ私は、いや我々多くの人と主語を大きく取ってもいいと思うんだけど、そういう価値と価格と喜びや幸せを一緒くたにしてしまうのだろう、というところをもうちょっと突っ込んでいかないといけない気がしている。

「なぜ」に対して簡単にこたえるなら、「そういうものだと言われているから」ということに集約される。
高価なものは高級なもの。
高級なものをたくさん持っているのは非常に恵まれた幸せな暮らし。
そういう切り口はどれもある意味では正しい。全然間違っていない。
だから、本当に間違っている時に気が付けない。

高価なものは、価値があるとされている。
その価値の意味は、人それぞれだし、尺度によってもさまざまだ。
価値を資産価値としてのみ考えている人は、リセールバリューがない(または低くなる)ものは価値がないと考え、すべてをすぐに売れるようなもので固める人もいると聞く。
好きでもないのに「世界中で値上がりしているから」という理由でエルメスのバッグを買うようなものだ。
それが手元にある時の幸せ度は100均で買った好きな色で軽い適当な袋のほうがリラックスして使えるし、見ていて楽しいし、と思っていても、エルメスのほうが価値があると信じている人は多いし、それを力強く否定できる人は非常に少ない。

力強く「100均のあのきれいな緑色のやつのほうがいいんでしょ!その方が幸せそうだよ」と言ってあげることもできない。
だってエルメスのバッグは使い古しでも100万円くらいするし、100万円の価値は引っ越ししたり留学したり、とにかく様々な選択肢があるくらい大きなものだ。

そういう、誰もが強く否定できない高価なものに対して気持ちが弱くなるのは『富の奴隷』メンタルだなって思う。

良い悪いじゃなくて、私はそもそも親がそういうところが強かったし、そうあるのが正しい社会人としてのマナーでもあると思っていた。
貯金をすること、浪費をしない事は富の奴隷として大変優秀だった。
逆に、浪費することも、富の奴隷としては正しかった。金に振り回されているのだから。

必要以上のお金を払う事も、好きでもないものを節約のために買うのも、セールになるまで待つのも、なにもかもが富の奴隷としての行動だった。
自分の人生よりもお金のほうを大切にしてしまう。

奴隷として上手に振舞うほど良いとされている、ように思えた。

金では買えない価値って、あるとは思うけど、お金のほうがよっぽど重要だったし、金がたっぷりあるならそんなロマンチックまぬけなこともいえるだろう。数百円の得のためにありとあらゆる努力をし、数万円のためにケガもする。
そういうことは普通だ。

でも、自分でビジネスをするようになって、本当にそういうのは他人を搾取していることだし、格差を広げることに加担する行為だと実感した。

かといって、どうしたらいいのかは、わからなかった。
寄付でもしたらいいのか。
民主的な価格といって値段をグッと下げればいいのか。
それらはそれでものすごい問題があるという事もすぐに分かった。
じゃあ、金額をあげていけばいいのか。
それは、ある意味正解だったけど、簡単なことではなかった。

やり過ぎるとぼったくりだし、犯罪になってしまう。
ぼったくりは個人の主観に基づくので、ちょっとくらいお金が減っても困らない金持ちを相手にしたらいいのか。
それは正解なんだけど、お金持ち枠はかなり押さえられているのだ。パイが少ない、ということだ。

世の中は、お金持ちの企業が大きな工場を動かして低価格の商品を作り、貧乏人が大量にそれを買う事で売上に貢献して、結局またお金があるところにお金が行くようになっているのだ。
それは悪い事じゃなく、安定した品質の良いものが安く提供されて、助かっているたくさんの人たちがいて、何なら世界平和につながっていると思う。
(大企業が悪いものを作って貧乏人から金を巻き上げて肥え太っているというのは、そういう事実もあるとは思うけど、そうじゃない部分もめちゃくちゃ大きいということだ)

大きなお金を持っている組織が、多くの人を安全に低価格で生活の助けになるようにと努力してくれるので、余計にその安全な枠の中で生きていってしまう。
つつましく。

これじゃダメだ、と私が思うのは、そういう生活にさえ弾きだされて、割とどん底ライフを過ごした時期が人生の最初にあったからです。
もしそうでなければ、私もつつましい富の奴隷として生きていくことに心を砕いただろう。

節約し、貯金し、安い服を買い安い食品を買って、毎月18万円くらいのお給料で、1000万円貯めた人になれるように……

なんと悲しい事だろう。

悲しいと思うようになったのは、自分で高価なものを勇気を出して買ったからだと思う。
浪費とも言えそうな、20万円のバッグ。
3万円くらいの、あるいは5万円くらいのものでも十分に贅沢なのに。
むしろその方が富の奴隷らしい行為に見える。
でも私を富の奴隷から解放するのに、20万円のバッグを買うというのはとても大事なステップだったと思う。
(まだ解放されたわけじゃないのかもしれないけれど)

お金と価値を分けて考える。
20万円のバッグは、あきらかに高すぎる。
高すぎるけど、もっと高いバッグもたくさんある。価値と金額、価値観と価格はひとつじゃないし人によって違うし、もっと自由でいいんだってわかったんですよ。身をもって。
20万円なんて高すぎるし、それで乗り越えられた壁を思えば安いもんだったし、両方正しい。バカな買い物をしたとも思うし、よくやったとも思った。
買った時は、泣いてしまった。ぽろぽろと涙が出てきて、悲しいとかつらいとかでもなく、逆にうれし涙でもなく、感動とも違う涙だった。
今まで蓋をしてないことにしてきたたくさんの思いが、亡霊のようについてきたものたちが、昇華していったような涙だったのかもしれない。

まずは自分の中の頸木くびきを解く。
自由になれることを知る。

たくさんのお金がなくてもいいが、たくさんというのは1000万円くらいの話で、500万円くらいはパーッと使ってもいいのだ、という価値観を得ること。
それが適正かどうかは分からないけど、そのくらいやっても人生が壊れるわけではない、私の力量なら。
人によっては300万が限度というひともいるし、認知力が著しくゆがんでいてクレジットカードを持つとあっという間に借金まみれになる人もいるから、金額は自分で探していくしかない。攻め方も大事だけど、守りも大事だ。
ただ、どちらも富の奴隷として身に着けたやり方だけを守っていてはいけないのだと思う。

価値と価格は全く別の尺度のものだということ。
それらがどう適性なのかは、その人の知識や価値観によって決まるということ。そこに迷っている人のほうが、多い事。
迷っている人が多いのをいいことに、泥棒じみたことをしている人もたくさんいるということ。
迷っている人は、曖昧な価値観よりも「これが売れてます!」「これに価値があります」と言われる方が安心するということ。すぐに後悔し、間違ったかもしれないとおびえているということ。
不安から簡単にひとを攻撃すること。だから本当に正当なお怒りは、あんまり伝わらない事。

経済的自由ってことなのかもしれないけど、お金がたくさんあって経済的に不自由しなくてもむしろ富の奴隷としてクラスアップしただけの場合もある。得てして、私たちはクラスアップした奴隷に憧れてしまう。

そんなことよりもつつがなく子供たちを育て上げる方が大事だ、という人も結構いると思う。だから、別に全員が自由を求める必要もないと思う。
でも私は、自由になりたかったんだよね。
本当に、自由になりたかったんだ。そのために、きっと残りの寿命を使うのだろう。

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つよく生きていきたい。