文章を書くのは好きだけどそれでご飯を食べない

私はとにかく文章を書く。
良い悪いはともかく、書くことで整理をつけることがとても多く、ものを書けないというのは、生きていられない状態になる。

それを才能と呼ぶならそうだと思う。
風が吹いただけで3000字を書く。

が、ライターという職業は、やりたくないなーと思っている。

書くことが、自分のためではない書くことは、あんまりやりたくないからだと思う。

が、私は書く。
それはそれは書く。
Facebookは毎日5投稿くらいしているし、Twitterもいくらでもかけるし、noteも3アカウントある(うちふたつは商業アカウントになる)。

書くことはできる。
それがいい文章を書けているかといえば、良い文章を書けるときもあるし、ただ文字を並べている時もある。

文章が書けるからって、文章で食っていきたいと思う事は、ビジネスを回していくうちに全く思わなくなった。
私は文章が書ける状態にあればいいのだ。
それで食っていく必要はない。
文章を書けないほど逼迫して働いている状態が嫌だから、みんな文章で食っていけるようになりたいとか思っちゃってるんじゃないのって思う。

小説家になりたい、みたいなのも、どうでもいいと思う。

文章で食っていきたいんじゃない。ただ文章が書ければいい。
それも、他人の為にじゃなくて自分のために書く状態があればいい。

それなのになぜこういう公開できる場所で書くかというと、私は私の文章を読みたいのだ。
めっちゃ読む。書いて読む。
でも過去作品は完全に忘れているので、あとで読んで「えー、これめっちゃいい事書いてるね!」って素で思う。
そして他人の感想は「感動しました!」というある種の最上級の誉め言葉も、正直うるさいなーと思ってしまう。黙れこの野郎、くらい思う。褒められているのに。

文章を金にしたいとは思わないが、私が感じたことを形にすることで金になるというのはとても気持ちがいいものなので、ずっとビジネスをやっている。
お金を通したノンバーバルなコミュニケーションがあるから、ビジネスはとても楽しいと思う。
違う言葉をしゃべりたい。言葉じゃないもので、表現したい。
だから、ビジネスをしている。ビジネスという形の表現、私にとってはアート作品、演劇やインスタレーション作品のようなものが、私のやっているビジネス。

その表現方法の中にもちろん文章を書くことは入ってくるのだけど、それがメインではない。
大きな役割を持っているけど。

でも文章を書くのは好き。好きというか、これが生きている実感のアウトラインを作っているといってもいい。ほかにもアウトラインはあると思うけど、とても重要なラインを作り出している。

文章を書くことで生きていくというのは、実にバリエーションが広いんだなと思う。
小説家になることは、文章力というよりももっと違う部分の才能を必要とする。
その幅広いセンスや感覚や、それを出力する技術を持たないと、いくら文章を書ける力があってもだめだ。
それに、私は日本語しか書けない。
そういう狭さも死ぬほど感じる。

書けるけどそれだけで食っていきたい、なんていうのは、まあまあコ狡い考え方だ。
だから、バズ狙いとか、炎上で名をあげるとか、やっちゃいがち。
気持ちはすごくわかる。

ただ、これは私がなんとかビジネスで身を立てたから言えることで、それができなかったら、とても何かを憎んでココナラなどで1文字いくらのライターなどをやってしまっていただろうなと思う。

つよく生きていきたい。