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都会でアイデンティティ形成できずに田舎に逃げ帰ったんだろ

まあちょっとそんな悪口がスーッと出てくるくらいの話題がありましてね。

割と田舎でいろいろあって、田舎の「ちょっと文化的なくらし」「伝統があるけど気取らない日常」「新しい民藝」みたいなやつに対する怒りがすごいあって、その表面的なおしゃれの裏で、何人が無駄なことをさせられて、つまんない結果になって金を減らしているのかね??という気持ちが止まらないくらいにある。

というのを、ここ最近SNSでちょっとネタになっていた工房の所在地を知ったことで、思い出されて、思い出し怒りをしている。

都会で大手企業で働いていたけど疲れて病んで地元に戻って、そこで工房を構えました、みたいな話で、全編恨みがましいポエティックな文章が張り付いているサイトに「思想が強い」というコメントが飛び交っているが、そういうのを見て一番思うのが、「都会でアイデンティティを形成できなかったから田舎に戻って、後天的な努力で身につけた物よりも最初から与えられた属性に着地してそれを売りにするなんて、都会に負けたんだろ」みたいな殺伐とした感想なわけです。

それが悪いとは言わないし、実際にそういう人がいたら、「へえ、努力されたんですね」「いいお店ですね」くらいは言うけどさ。
アイデンティティを形成できなかったから田舎に戻って、土着の情報で箔をつけるみたいなやり方は、私の中では死を意味する。

まあ、帰る家がない人間だからね。
卒業した母校はみな消滅。

それにしても、田舎の文化地区でちょっとおしゃれな工房を構えている人たちは、みんなそろいもそろって似たようなものを作っているから、なんだかなって思う。
昔は和柄の端切れをなんか縫ったやつ。
最近は、ものを少なめにして、アケビのかごバッグとか、シェーカーボックスとか、手吹きガラスのコップとか、そんな感じ。皮を巻いたコーヒーを入れるポットとかね。どのお店も結局おそろい。
新しい民藝ごっこ。
オリジナリティといいつつ、どこも同じ。

こうなると、アイデンティティとは??みんなとおそろいでいいの??
あっそう。
みたいな感じになっちゃう。
まあ、他人のアイデンティティなんてどうでもいいんですけどね。(嫌味)

で、そっちの人たちは言うわけだ、地元に帰っても来れない半端もんが、都会で消耗してかわいそうに(上から目線)って。
ちゃんとご飯食べてる?なんか小ぎれいな外食ばっかじゃなくてさ、取れたての野菜とか魚とかさ?家賃大変なんだろ?こっちはその値段なら平気で5人家族住めるのに。駐車場も普通にあるしさあ。ねえ??
といって、実際に戻ったら、「市役所に努めるなんて、戻ってきたやつがよくいうよ、なんにもできっこないんだから」とか嫌味ばっかりだ。

「家からで、すぐに帰ってくる奴と、二度と帰ってこない奴にわかれる」というのは、田舎出身者全員思い当たる節があるやつですが、まあどっちがいいってもんでもないです。それはわかっています。
が、田舎から出られないタイプの人のうち、よほどの資産家の子息以外は、大体毒親の縛りだと思う。
(そして田舎の資産家は、息子が東京に進学だからといってスッとマンションを買う。最近はどうだか知らないけど。相続税対策にちょうどいいんだってさー。政治献金とかしまくってるんだろうなって思うし、田舎では羽目をはずせないから都会で羽目を外し、コロナ期の時は田舎は東京に行く社長だけがコロナにかかってくると言われていた)

生まれ持ったものに頼ったアイデンティティの否定は、常に命がけの戦いになる。ちなみに、私が見ている限りでは、ほとんどの人がその戦いに負けている。
その戦いを制して一人前に身を建てるのは、女の場合は単純に結婚して子供を産んで、よその土地に嫁というスタイルで入り込むというやり方が一般的で、男の場合は独立して一国一城の主、みたいな感じが多い。
が、最近は女も平気で独立起業して、結婚以外のルートも増えた。というか結婚というルートがこんなにも価値が減っちゃう時代が来るとはね…という気持ちである。

つらいのは、一度逃げ切ったかと思っても、結局数年、まあもって10年、みたいな感じでぶり返しがあることだ。


アイデンティティを求めて逃げ帰る、というのは、私の中で最も許せない撤退である。
でも世の中には、生まれたものを大事にすることがアイデンティティというタイプもいて、へーと思ってみている。
生まれ持ったものがアイデンティティと思っているタイプが、生まれ持ったものはアイデンティティの助けにはならないという価値観の世界に来ちゃうとアイデンティティクライシスを起こして病むので、適性に合った場所や環境は大事だなって思う。

こう見ていくと、アイデンティティとは自分だけで作られるものじゃなくて、環境というか自分を取り囲む空間、よりももうちょっと広い時空&情報みたいなものでできているのかなあ、と思う。

それらをどうチョイスし、どう表現するのか。
選択もその人のセンスと表現につながっている。

それらすべてがアイデンティティじゃん。もう選んじゃってる時点でそうじゃん。なのに、すでにそこにあるアイデンティティにも背を向け、簡単に後付けできる「出身地」とかに戻るのって、私には超ズルくてせこい事に見えるわけです。

都会をディスって地元では都会風を吹かせた上から目線、みたいなことになってるのを想像して、どこにいても自分が一番にならないと気が済まないからすべてのものを自分の飾りのために使っているその根性が気に食わん!!みたいなことを思っている。

一番になりたいなら、一番になれなかった時に死ぬか、一番になれなかった人生を歩むしかない。

一番になれなかった恨み節を一生歌い続ける、というのも、それはそれで根性のある生き方だとは思うけど、私は嫌いだね!恨み節を歌い続けるために生まれ持ったアイデンティティに逃げるんじゃなくて、そういうの破壊して先に進むために恨みのひとつやふたつ出てくるから歌う恨み節のほうをシンギンsingingしていきたいです。


で、結局、年齢が上がるにつれて、なんらかの継承や先祖先輩へのリスペクトが生じて、どこにいても破壊的な革新性を失っていく。
その代わり、その場で生きる生活を得る。

つよく生きていきたい。