課金されると動けなくなる幼さと弱さ

課金システムで大盛り上がりのnoteだけど、これを見ていてすごく胸の内側がちくちくとした。ここから先は金を払うのだ!という課金ブロックを見るたびに、ぽちっとせずにすごすご帰る自分。たった100円を払おうとしない自分。その胸のうちの、じくじくとふさがらない傷口。

私はかなり田舎で育って、しかも両親が変に厳格なところがあって、テレビもろくに見てはいけないという環境で子供時代をすごした。

その頃のわたしは、ものすごく餓えていた。カルチャーみたいなものに、ものすごく餓えていた。その餓えと渇きは、いまも消えない。消えていないことを、この課金ブロックはまざまざと思い出させてくれる。

お金を払えば手に入るもの。

それが、絶対に絶対にわたしには手に入らないものだった。まずお金が無かったし、そのものがある場所へたどり着けなかった。だから、わたしはずっと自分が欲しいと思うものをリストにして眺めていた。眺めて、眺めて、自分がそれを欲しくなくなるのを待っていた。

そんなことを、まざまざと思い出すのです。

課金されたら、わたしはもうあきらめるしかない。そう思っていたローティーンの自分がひょっこり出てきて、わたしのすべてを支配するのです。たとえ自分がクレジットカードを使えようとも。

だから、この課金システムで、わたしはそれを手に入れていいということを、ローティーンの自分に教えてあげるチャンスなのかもしれない。

その一方で、ずっと欲しい気持ちを押し込めていたことをわかっている「押し込めていたわたし」は、欲しい気持ちに歯止めがかからなくなってしまったらどうしようかと恐れてならない。それもあるのです。

ただ課金するシステムが、こんなにも心をざらつかせる。なんともひどいものだ。

田舎にいて、お金も無くて、文化的なもの(カルチャー的なものといったほうがいいのかもしれない)に触れることができなくて、餓えて餓えてやせ細って死んでいったわたしの魂よ。大人になったわたしは、お前を救って上げられるだろうか。

お金があればすべてが解決したのかといえばそうではないけれど、その魂のかなしさは少しは贖(あがな)えるのかもしれない。そして、わたしはその餓えがあったからこそ、「自分で売る」ということに命をすてる事が簡単にできたのかもしれない。

だけど、課金ブロックを見るたびに、その幼いわたしの心はシクシクと泣くのです。あれほど我慢して、欲しいものをたくさんたくさんあきらめて、背だけは少し伸びました。

わたしにはひとつ願いがあって、そういう田舎とかにもっと簡単にカルチャーに触れられる場を作りたいという切なる願いがある。そこに行けばお金が無くてもカルチャーに触れられるし、お金を払えばもっとちゃんとそれを手に入れられることを教えてくれる人がいるような、そんな場所。ある程度の構想はあるけれど、それをどうしてもやりたいと願うのは、わたしのなかのたくさんの欲しいものをあきらめて餓えて死んでいったわたしの幼い魂がそう叫ぶからにほかならない。

悲しみを思い出すから、墓標のように最後に課金ボタンを置いておこう。そう、墓標というのが一番ぴったりくる。課金ボタンは墓標だ。わたしの、墓標だ。たとえ押して課金したって、なにもでてこない。だってもう死んでいるんだから。

(おわり)

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つよく生きていきたい。