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「やり抜く力」ブックレビュウ

やり抜く力――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

すごい煽りの帯と表紙によって、イケてるサラリーマンとか起業家とか向けの本に見えると思います。
ハーバード×オックスフォード×マッキンゼーってどんな公式だよ。
だいたいそいつらそこでまとまっちゃってるから、そこにいる人たちには普通なんじゃないの?とちょっと意地悪な目で見てしまう。
そこにすげーとか思うのは、そうじゃない下々の者だってことでさ。
下々の者に向けて作られた本って信号が強すぎです!

という「キラキラ系ビジネスマンオーラ」を乗り越えて、読みました。

なぜ読んだのかというと、私は20代後半に実家の借金返済を理由にビジネスを立ち上げてまあまあうまくできた。でも、そこにうまくいくような要素はひとつもなかった。なのになぜ私はそれができたのだろうか。なんであきらめなかったんだろうか。
それが知りたかった。

本は3章立てになっていて、1章でなぜグリット=やり抜く力を研究することにしたのか、なぜそれが重要なのかが長々と解説されている。2章でグリットの正体というべき4つの要因を解説。3章で、著者の経歴でもある学校の先生として、そして二人の10代の娘を持つ母親として、今できる最善のすべてが書かれている。
「研究者としてはあと10年欲しいところだが、子育ては待ってくれない」
なんかこの人、いい人だなと思う。

ハウツー的な部分はちょっとまだ読み込めてないので、まとめて感想を書くことができないのだけれど、これを読んで私はなぜか何回も涙がでた。
別に感動巨編ではない。
なのに、とにかくもう、動物実験の結果とか、親が子供のやり抜く力を引き出すための有効な手段(正確には、その前段階なんだけど)についての解説で、もう涙が……。

過酷な体験はその後の人生にやり抜く力を与えるだろうか?という問いに対する検証がいくつも解説されている。
過酷な体験として、エリート軍事学校の訓練とかも出てくるが、犬に電気ショックを与える実験で得られた回答が本当につらかった。
動物は無力さを学習するのだ。
DV被害者が逃げない理由は、まさにそれだ。
「無力さを学習させる」これによって、その後のすべての人生が、痛みが襲ってきても床にはいつくばってその痛みが去るのを待つだけになってしまう。逃げたり治療したり戦う事はない。
やり抜く力の反対は、無力感なのだ。

希望が、やり抜く力を構成するひとつに挙げられているのは、そういう事だ。

この画期的な実験によって、「無力感」をもたらすのは苦痛そのものではなく、「苦痛を回避できないと思う事」だという事が初めて証明された。
(P230)

私はずっとあんな程度の事でどうして私はこんなに混乱したのだろうかと思っていた。家庭内暴力といってもたいしたことじゃない。もっとひどい例はたくさんある。なのにどうして私はこんな散々な気分になったのか。
それは、苦痛そのものではなくて、回避できなかった若く幼かったころの長い年月がそうさせたのだ。

無力さを学習させる。
これが親の教育のひとつの側面だった。
無意識的にやっていたことだろうけれど。

それがもっとはっきりするのが、3章の子育てについての内容だ。

「科学では賢明な子育ての答えは出ている」とされている。
ひとつのマトリックスがあった。
縦軸に支援、横軸が要求だ。
縦軸が上に行くほど「支援を惜しまない」、つまり子供のために必要な支援は金銭的なものから時間を割いて練習に付き合うとか、ご飯の事とか何もかもを支援する(時にはほっておく事も必要だろう)という態度になる。
下に行くほど「支援しない」になる。
横軸は、左が「あまり要求しない」、つまりあれをしろこれをしろ、あんなふうになれ、これにはなるなみたいなことを言わない。右がその逆で要求が多くなる。
このうち、賢明な子育てに配置されるのは、「要求が多く」「支援を惜しまない」態度になるのだという。

ここでも、私の持っていた違和感がスッキリ整理された。
私は、親に支援をされなかったんだ。(親的にはある程度やったと思っているはずだ!)
要求はあまり多くなかったが、褒められもしなかった。
要求が少なく、支援がない子育ては「怠慢な育て方」になる。
支援が多いが要求が少ないのがいいような感じもするがそれは「寛容な育て方」で悪い結果としては量産されているバカ息子たちを想像すれば納得がいく。
ちなみに、支援をしないが要求が多いケースは「独裁的な育て方」になるという。一番やっかいだけど、問題が表面化しやすいので脱出するきっかけは多いともいえるかも。

かつては、支援を惜しまず要求が多い親というのは「過干渉」が問題視されていた。実際、家庭内問題の多くはこの過干渉が鍵になる。裏には共依存という問題が隠れている。

ただ、ここでは「子供に意思があることを尊重したうえでの支援」という、共依存や過干渉をクリアした支援について言及されている訳で。


思い返せば、両親は忙しかった。自宅で店をやっていたので、ほとんど同じ家にいながら会う事はなかった。
子供も3人いたので、めんどくさい事も多かっただろうし、そのくせ父は自分の趣味(自転車に乗る事)ばかりにお金をつぎ込んでトレーニングに明け暮れるという訳のわからない事をしている。
母はものすごく「私は特別、エッジの尖った人間だ」という感覚をずっと持っていたようで、一眼レフカメラとか使っていた。
で、どっちも商売が下手だった。
子供にもあんまり興味がなかった。悪い事に触れさせないようにしておけば立派に育つみたいに考えていたらしく、テレビ禁止・甘いものを食べるの絶対禁止・ゲームも禁止、あれもこれも禁止だけして、代わりに何かやりたいといっても「金がない」みたいな理由でさせてはくれない。服も買ってはいけない、雑誌も買ってはいけない、出かけてもいけない。図書館の古ぼけた本だけ読んでいればいい。漫画もダメ。
要求は多く、支援が少ない。

そうだったのかーと思って、ちょっと泣けた。

ごはんが食べられなかったとか、楽しい事がなかったわけじゃないので、恵まれていないとは思えないんだけれど、納得がいかなかった理由がよく分かった。私は全然支援をもらえなかったんだ。

両親は、今は少し悔いているらしい。
それは私が完全に縁を切って二度と家に戻らないどころか、葬式もいかなかったからだ。
そうなってやっと、自分たちがいかに子供によくない事をしていたのかを知ったのだろう。自覚がないから許されるものではないのだ。20年後にそれを知ることになる。愛があれば何とかなる、訳じゃないんだよ。

愛がなくても賢明な子育てのある家庭にいたら、幸せだったと思う。
というか、そういう環境にあることが愛でもある。お金はあんまり関係なくて、私は歯磨きしながら馬鹿笑いすることよりも、もっと面白い本を読んだりしたかったんだよね。そっちの方が私にとっての支援だった。
禁止事項をもう少し減らしてくれて、毎月1000円くらいのお小遣いがあれば十分だった。小遣い制度はなかったので、塾をやめるからその分のお金が欲しいといったら鼻で笑われた。

この本にも、何度となく貧困層の子供たちを憂える記述が出てくる。
サッカーやフットボールなどのチーム競技に参加しても、収入の少ない家の子はユニフォームが買えない。遠征に参加できない。才能があっても、だ。
それに才能があることが大事なのではなく、才能を伸ばす環境に行くことが何より大事なのに、それが親の収入の少なさによって阻まれ、結果として犯罪者になってしまう子供たちが増えるとなれば、社会情勢はもっと悪い方に傾く。
貧困層は、学べない。
結局、そこには「無力さの学習」で覆われたあきらめの社会が広がっていくだけだ。


なぜ私が不可能な状態から、ビジネスを立ち上げられたのか。なぜあきらめなかったのか。それらを知る前に、私はなぜ今までうまくいかなかったのか、何がそんなに苦しかったのか、けして頭も悪いわけじゃなかったし、見た目だってそこまで悪くもなかった、なのに何でいろんなことがダメになっていったのか、その理由のほうが先にわかったのだ。

ただただ、無力だった。
才能も、能力もあるはずなのに、ものすごく無力だった。
それが、絶望の一番の理由だった。

自分の無力さを思い出して、本を読みながらボロボロ泣いた。
挙句に、夢まで見た。
夢の中で、とある人に聞かれた。「今は幸せですか」
「幸せです。問題がないわけじゃないけど」と夢の中で答えていた。

才能とか、能力の高さは、あまり意味がない。
それは誰かに認めてもらわないと価値がないもので、そこにアクセスすることなくただ田舎の家に押し込められているだけだったら、存在しないも同然だ。
(たまーにそれらを見つける人がいてアウトサイダーアートだとか言っては喜んでいる)
グリットには4つの構成要因がある。
希望の他は、目的だ。それは「これは誰かの役に立っている」「何かしらの意味がある」という確信。
才能や能力は、それだけでは何の役にも立たないのだ。

あとのふたつは、興味練習
実は、最初は興味ついて語られ、次に練習の事について解説されている。
そして目的、最後に希望となるんだけれど、私としてはまず希望の存在が強かった。何度も失敗を実感している人なら、最初に必要なのは希望だ。
そして今までのモチベーションが続かなかった理由は、目的にあるとわかるだろう。それからやっと練習という枝葉の部分にいたり、根源的な「これがなんか好きなんですよ、ただ見ていたいんです」みたいな原始的な興味という部分がそれを多く支えていることに気づく。
枝葉の部分も重要だし、根源的な興味というところも大切なんだけど、なぜ私は希望を失ってしまったのか、という事を知るのはとても重要だ。

枝葉の練習とか目的とかの部分は、また別のレビューで書こうと思う。

この本は、ビジネス本っぽい体裁を取っているけれど(まあそのほうが売れるんでしょ)、ビジネス的なものの考え方はあんまり載っていない。
軍事訓練とか、金メダリストのトレーニングとか、全然ビジネスとは違う分野のケースばかりだから。これをビジネス本として読んじゃうのは結構きついと思う。ミスリード過ぎる。
だいたい、やり抜く力が欲しいという人が、この世にどれほどいるだろう。
そんなものはいらないのだ。
あったらいいな、なんていうのも嘘だ。そう思わせられているだけだ。お前は継続力がないからダメだと減点された事を単純に見返してやりたいというだけの事だ。やり抜く力なんて、不必要だ。

けれど、無力感に苛まされ人生の半分を失う事は、避けるべきことじゃないだろうか。希望を持つことは、結果としてやり抜く力の副産物(逆かもしれないけど)だし。

わたしは、ただ希望を持ち続けたいのだ。
そして無力感に、勝ちたいのだ。
あの後ろ足に電流を流されて床にはいつくばってクンクン泣くだけの犬ではなく、そこから飛び出して逃げていける犬になりたいのだ。


やり抜く力――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける
アンジェラ・ダックワース (著), 神崎 朗子 (翻訳)

つよく生きていきたい。