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人生を損切りするのは諦める為ではなく加速するため
すべての願いを叶えることはできない、と、常識的な部分は冷静につぶやく。
「人生はすべてを叶えることができる。あなたが望みさえすれば」と、ハッピーでちょっと頭の悪そうな思想家は行間の広い本を出す。
どちらも正しい。
人生にはなにかを損切りする必要が出てくる。
確かにすべてを叶えることは難しい。
でも、できなくもなさそうだ、とも思う。頭の悪そうなハッピーな思想家は偉大だ。タロットカードの愚者みたいに。
しかし、やはり現実が立ちはだかる。
その時、なにかを損切りするというのは、人生を諦める為ではなく、むしろなにかを捨てて車体を軽くして加速するためにこそ必要なのではないか、と思う。
なにかを諦めることは、一時的でいい。
今それを捨てて、より早く走れるようになって、行動力を高めて、最終的に一時的に諦めたそれを回収しに来さえすればいい。
確かに、回収できたとしてもそれは今とは違うものになってしまっているかもしれない。
でも、本当に捨て去って諦める必要はない。
人生は、損切りすることなどできないほど、豊かなのだ。
よしんば、損切りできたとしても、それは人の為せることではない。神の領域というか、運命の歯車というか。
もちろん、他者の人生を誰かが損切りするなんてできない。やるとしたら、自分自身だ。
それでも、損切りは、単なる「保留」程度の話であって、その気になれば最終的に回収できる。
頭の悪そうなハッピーな連中は、結構いいことを言う。
ただ、どうしてもすごく頭が悪そうなのは、どうにもならないらしい。
これからも、どんどん損切りをしよう。
そして諦めることなく回収しよう。
身軽になって、飛び回って、悲しみも憎しみも苛立ちも、喜びもときめきも満ち溢れる幸せも、どれも愛しく思い、それらもまた切り捨てて、どこにでもいけるように。
つよく生きていきたい。