【アートアクアリウム】金魚のくれる痛み
『アートアクアリウムに抗議する』に抗議するhttp://togetter.com/li/676074
というtogetterを読んで、思い出したことがある。
アートアクアリウムは金魚を大型の水槽で幻想的に展示し、ちょっとクラブっぽい音楽をかけた独特の美しい空間をつくるイベントだ。
わたしはとても興味を惹かれて見にいった。とてもきれいだった。
同時に、このまとめの発端となるブログのような痛みも少々感じた。この会期が終わるまでに何匹の金魚が「卒業」してしまうのかなと思った。
どうしてこんな金魚に「痛み」を感じるのだろうか。
金魚にはじめて触れたのは、たぶんお祭りの金魚すくい。やっとのことで小さなオレンジがかった金魚をすくって家へ持って帰った。
小さくて、とてもきれいだった。
かわいいという感情はまだ感じることができないくらい幼かったわたしは、ぴーちゃんと名前を付けた。それが最初の金魚だったと思う。
その後、小学校で金魚を飼うことになって、水槽が置かれた。
友達の家にも金魚の水槽があった。
そんなふうに金魚が身近にいる事を自覚し始めた。
そして金魚にたいして、いたたまれなさを感じる体験も増えた。
金魚はすぐに病気になってしまう。それに死んでしまう。
片目が取れた出目金や、水槽の匂いや水換えの手間も嫌だった。
それにエサのときしか反応のない片思いなコミュニケーションへの不満。
関わりたいのに関われない歯がゆさ。
そういう痛みを、無意識に幼い心は蓄積していたのかもしれない。
金魚にぴーちゃんと名前を付けて洗面器に泳がせた私は、彼女をとても大切に思っていた気がする。
きれいで、触りたくて、いつも握りしめていたかったけど、それはダメだと言われた。死んでしまうから、と。
そういう悲しさを誤魔化すために、自然の形を守らないとよくないのだと言い聞かせて、その痛みを癒そうとする小賢しさを大人が教えてくれる。
愛するものは水の向こう。
絶対に越えられない。
金魚はそれを教えてくれる。痛みと共に。
教育的観点があるわけじゃないけど、そうやって、人生最初の痛みを感じる。その痛みは、実は一生消えなくて、ときどき正義や正論の形で現れて暴力をふるう。
金魚はそんな痛みをくれる。
魚の命をどうのこうの、美がどうのこうの、文化がどうのこうのといい始めてしまうと、論点が多すぎて話し合いはあっという間に焦げ付いてしまう。
でも一番最初の展示を中止しろ!と過激に叫ぶ人の原動力は、その幼いころの金魚(あるいはほかの動物や植物、人間関係かもしれないけど)がくれた痛みにあるような気がして。
金魚がくれた痛みは、愛するものとうまく関われない痛みだったと思う。
水の中にいる金魚とは、どうしたってうまく関われっこない。
それでも美しい尾ひれを与えたり、キラキラする色を与えようと苦心することでかかわりを持つ愛し方(愛好家)もいるし、どうせ関われないのなら自然に返してしまえと思う愛し方(反対派)もいるのだと思う。
どちらも愛するものと関われない痛みを、わたしはそこに見出すことになる。愛し方の対立をそこに見る。愛おしさと、それにこたえてくれなかった水の向こうの金魚への憎しみとも呼べない薄い痛み。どちらもそれを感じているんだろうと邪推する。
愛していたとしても、思い通りにならないことがある。
3歳ぐらいのわたしに金魚はそれを教えてくれたのかもしれない。
言葉ではなく。
(おわり)
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