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「遊女はどういった境遇だったのか」に答える難しさ

大吉原展』を取り巻く一連の動向以降、いくつかメディアの取材を受けた。「遊女とはどういった存在であったのか?」といった遊女の実態、遊女像について聞かれる。「きらびやかな遊女像」「悲惨な遊女像」という意見対立に映る本件は、じゃあどっちが正解なの?と読者を代弁してメディアが伝えたいのだろう。加えて、こうしたメディアからの質問は動向以前からあった。その意味で一連の動向は、『大吉原展』以前から徐々に醸成されてきた対立軸が一気に噴火口を求めた結果でもあるだろう。 

私は研究者ではなく、一介の取材者、経営者で、遊女の主体性や心性を論じた先行研究者には宮本由紀子*1氏や宇佐美ミサ子*2氏などがおり、元遊女から聞き取りした文筆家には竹内智恵子*3氏などがおり、それらに依拠した論考もある中、私が「遊女とは」と大上段に構えて述べることはおこがましい限りだが、取材を受けるメディアのほとんどは大衆メディアであることから、「吉原にある遊廓専門書店の店主」という立ち位置が、先方メディアにとっても手頃なキャッチーな存在なのだろうと理解している。(そもそもこのキャッチーさは意図的な設計のもと書店を構えている)

先人の顰みにならって質問に答えるにせよ、答え方が難しい。取材者としての苦労が分かる以上、取材してくれる記者にはできるだけシンプルに答えるよう努力したい。私は「遊女の多くは○○で〜」と傾向性を答えても、おそらく記者や読者の頭の中では「遊女は○○だった」と断定調に読み上げられている。さらに困ったことに、あたかも○○以外の遊女が存在しなかったかのように捉えられる。「一側面として」と前置きを述べても、編集上カットされることもある。私の発言にない文章が添えられることさえもある。

これは一概にメディアの責任とも言い切れない。それぞれの読者層に応じて敷衍して伝える役割を担っているメディアの限界や職業上の苦労も充分に分かる。

記者からの質問に答える最中の私は、どうすれば訊き手の期待に応えられるかと同時に、インタビューやメディアの特性上どうしても持ち出さざるを得ないステレオタイプな遊女像によって、彼女ら一人一人の厚みを持った半生を物語の中に埋没させてしまうのではないか、一人一人の尊厳を無視してしまうのでないか、と恐れている。

こうしたこともあって私は「遊女はどうであったか」よりも「遊女はどういった環境におかれていたのか」を代わりに答えるようにしている。性病を根本的に防ぐ手段、治療法がなかったこと。人身売買は、当事者間ではなく債務者すなわち父親が本来債務上は無関係な娘(の労働力)を売買対象としていたこと。債務者といえど社会構造的な貧困に飲み込まれていたことなどなど。

こうした状況を足場にして読者が自身で想像して欲しい。当然ながら、読者の多くは遊廓に特別関心が高くもなく、まして知識を多く蓄積している訳でもないから、余計に実態とかけ離れて想像してしまう可能性もある。それは発言者の私の責だ。他方、判断への躊躇、判断する自分への疑心が、さらなる遊女像へ近づく努力を醸成し、様々な立ち位置からの議論を建設的なものとし、さらには我が事とするために欠くことができない。「遊女は○○だった」「◇◇だった」「●●だった」と断片的に知識を蓄え、議論に持ち出そうとも、先の躊躇や疑心がなければ、論敵の裁断に終始してしまう。こうした場面が私には多く散見されている。

※ヘッダー画像・広島県呉市、御手洗遊廓の若胡子屋に残る遊女墓。刻字には「若えびすや 八重むらさき」とある。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

◇参考文献
*1:宮本由紀子『吉原仮宅についての一考察』
*2:宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』
*3:竹内智恵子『昭和遊女考』とその連作

※以下は有料ラインですが、以上がすべてなので、その下には何も書いていません。記事を有料化するためのものです。

ありがとうございます。取材頑張ります。

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