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『男はつらいよ』が〝キモい〟で語られること

Twitterでフォローしている元島根県民の青いトリ( ・∋・)さん(以下、トリさん)が、松竹映画『男はつらいよ』について言及する(おそらく)若い世代について、取り上げておられた。

トリさんは極めて理性的に受け止められておられたが、私はモヤモヤが残ってしまった。本稿ではこのモヤモヤについて考えてみたい。

まず、確認するまでもないが、映画『男はつらいよ』(昭和44年)第1作が公開当時、すでに寅さんこと車寅次郎のキャラクターは大時代がかった人物として描かれ、受け容れられこそすれ、決して「この時代なら当たり前」「この時代のオーソドックス」ではない。当時既に「時代遅れ男」だった。陳腐な柄のスーツ(後年の作品より第1作のスーツは柄が派手派手しい)に雪駄履きというチグハグな出で立ちは、現代と歩調を合わせられない人物そのものであって、作り手の作意を観客に分かりやすく提示している。

毎年行われているイベント「寅さんサミット」が据えるテーマには「日本の原風景を守り、後世に伝える」とある。これを象徴的な例として、柴又帝釈天の参道を始めとしてロケ地やメディアはこうした文脈で本作を伝えることが多いためか、寅さんといえば、〝古き良き日本〟というイメージが人口に膾炙している印象がある。

「寅さんサミット」から引用

先の否定的なツイートの中に「痛快さとか爽快な感じとかは無い」とする感想を目にしたが、これらは先行するイメージとのギャップ、換言すれば勝手に虚像を投影させてきた故に生じた、不満あるいはネガティブな感想ではないだろうか。(その意味で、先のツイート主も虚像に振り回された側ですらある)

というのも、車一家は決して〝良き〟家庭ではない。例えば、さくらの夫・博は父親と一定程度の相互理解しか得られなかったし、2人の兄からは軽視され、意識的な断絶を抱えたまま自身も老いていった。作品の代表的なマドンナとして必ず取り上げられるリリーも、母とはぼぼ断絶状態にあり、最晩年の作品『寅次郎紅の花』(48作目、平成7年)では、養護老人ホームに入所する母とは理解し合えないまま、近い将来、死が別つであろう2人の関係性が描かれている。こうした悲喜こもごも、清濁併せ持つ人物が、本作では「人間らしい人間」として描かれ、「寅さん一家の温かさ」なるものに触れて感激する登場人物はそのどちらかが欠如している。

(不幸の定義は棚上げするが)作中の不幸な人物、不幸な関係性は不幸なまま、回を重ね、年齢を重ねていっている。作中登場する人物や設定を取り出してしまえば、かように救いのないものだが、これを大衆映画、しかも喜劇として描く山田洋次監督を始めとする制作陣の技量こそが、本作の凄さと私は理解しているが、どうだろう。

寅は若い世代にはシンプルに「愚かな男」に映るかもしれず、確かに劇中の言動からすれば、その解釈は間違いない。ただし、そのことは寅だけに帰責されるものではない点もしっかり作中で描かれている。いわゆる妾腹の子で、生まれながらに近親者にも疎んじられて、当時の人々が考えるところの〝まっとうな道〟から外れていった。寅の存在は父親の過ぎた女道楽の結実である。寅が出自を理由に軽んじられたとすれば、父親や非嫡出子という理由で軽視する社会に帰責されるべきで、寅に一切の責任はない。寅は前世代のツケや、社会による無自覚な差別偏見のツケを背負わされている人間としてみることもできよう。

私たちの社会が前進や進歩を名目に、犠牲にして顧みてこなかったばかりか、差別偏見のまなざしで眺めてきた人々には、公害被害者を最たるものとして枚挙にいとまがない。「時代に置いてゆかれつつある人々を愛情を持って描く」としばしば紹介される山田監督だが、寅というキャラクターに私たちの社会が切り捨ててきた人々を重ねる視点がなかったとは到底思えない。

寅には備わっていない「正しさ」、換言すれば先に挙げたツイート主たちが求める先にあるのは何だろうか。「許せない他人」と「こうありたいと願う自分と、現実の自分に苦しむ自分」に思えてならない。これは現代人が抱える生きづらさを占める大きな一つではないだろうか。

価値観は時代によって変化し、アップデートしていく。本作に限らず、他の視点が生まれたり、当時の感覚に同意できないことがあっても、なんら否定されはしない。ただし、こうも言える。現代の若い世代は前世代のツケを背負わされているとする見方も多く、私もその見方に一定以上の共感を覚える。その意味で、本作公開時以上に寅への共感が得やすい時代にあると言って良いはずだが、寅に共感するどころかキモいと切り捨てて憚らない視点が、私のモヤモヤの理由であるようだ。


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