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いつか、なんて、もう来ない。


お世話になっていた、敬愛する方が、自殺したことを知ったのは今日の午後だった。

一瞬、時が止まって、現実のこととして考えられないくらい、その二文字は全く、その人に相応しくなんかないのに。

これを書いてる今でも、ほんとうに信じられないし、まだ受け入れることができていないし、ぴったりの言葉が、びっくりするくらい、全然出てこないけれど。

わたしの中には言葉にできない
この世界への震えるような怒りと

人生ではじめての、後悔。

これまで、後悔したことなんて、わたし正直なかったんだけど、そしてそれは自分の人生の誇りでもあったんだけど、ああそれはそうか、失敗してもやり直しが効いたり、トライアンドエラーを繰り返したりできること、前提だったんだ。


死んだら「次」なんて、もう来ない。



連絡をもらっていた。

もう2年も前のことだけど、「いろいろ話したいことは山ほどある」と。

「どっかで飯食いに行こう」

そんな風に誘ってもらったのは
すごく珍しくてそれが最初で最後だったのに、

わたしは返信しなかった。

しなかったというよりも、できなかった。とても尊敬する人だからこそ、とても応援してもらったからこそ、とても見守ってもらったからこそ、とても理解してもらっていたからこそ、きっと同じ世界で生きる人だったからこそ、だからきっとわたしに打ち明けたい気持ちが沢山あったんだと今なら痛いほど、分かるのに。

なのに、その時、わたしは未熟なわたしでは会えないと思っていて、本気で思っていて、せめて、わたしのサービスが完成してから、自信を持って会える自分になってから、成長した姿を見せれるようになってから、200%のお礼と報告をしに、会いに行こうと思っていたから。

でも、「いつか」と思っていたその日が来ることはもう一生なくて、その「いつか」がわたしの中では今年の夏だったとしても、もう二度と叶うことはなくて、もう一生、感謝の気持ちを言える日は来なくて、もうなにも、届くことはない。




悲しいよりも、会いたかったよりも、
後悔よりも、怒りがいちばんに、大きくて

他の対象があまりに「邪魔」だから、
ぜんぜん、死とは、向き合えない。






この世界では、
じぶんの気持ちを、ただ表現することが、
あまりに難しい。

ただ思ったことを言うことが、
おかしいことをおかしいと言うことが、
イヤなことをイヤと言うことが、
子どもの時はできることが、大人になると、
時々、あまりに難しい。


そしてそれが「軽視」されている世の中は最初からおかしくて、なのにもう軌道修正することはなぜかとても難しくて、だからそのまま回っていて、いつしかそれが当たり前になって、そこでの正解が正解になって、苦しいも痛いももう言えなくて、言い方が分からなくて、力が出なくて、最後には抜け出せなくなってしまう。

わたしはそんな資本主義社会の歪みが溜まり切ったような「側面」をこれまでも今もこれからも絶対に許すことはできないし、でも悔しいけれど変えれるなんてことも到底思っていないから、だから、別の世界を新しく創ると決めている。みんなその「おかしい」世界しか見ていないんだったら、その隣に「そうじゃない」世界を気が済むまで創り続ける。もうそれしかないと思っている。だから自分が理想とする世界を自分で創って、毎日そこで生きている。そしてこれから沢山の人を魅了していきたいと願っている。たとえそれが小さな輪っかだったとしても、何よりも強くて簡単には壊れないようなものに仕上げるし、絶対に真似できないものに仕上げていく。そしてそれがいつか、「当たり前」と思われる世界の「種類」に、していく。


わたしの情熱は、大切な人の「死」さえ取り込んで、より一層、燃え続けるのだと思った。




「もしお話できる機会があれば行きませんか?」


今ならすぐに返すのに、候補日も送るのに、お店も予約するのに、もし日程が合わなかったら、合わせて調整だって、するのに。

どんなに行きたくても
もうその時は、戻ってこないから、
命を燃やして、表現し続ける

この世界にはもういない、
あなたにも届きますように。

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